本当に学問は枯渇したのか? - 大学とはなにか? (4)
前章では、学問の科学化と経済化。それに伴う科学技術バブルを考察してみた。
戦時中(異常) 戦後 現代
科学技術へ投資 → 経済へ投資(好循環) → 経済不況(悪循環)
科学技術の興隆 科学技術/学問の大衆化 科学技術/学問の枯渇
本章では諸事情により予定を変えて、現在の学問体系の問題とその解決策を考察してみよう。「本当に学問は枯渇したのか?」
目 次
1.科学技術は枯渇したのか?
2.経済と学問のバランス
3.学問よ科学を捨てろ!
4.まとめ
1.科学技術は枯渇したのか?
・現代科学の技術革新
「科学技術はすでに枯渇したのだ!」
そんなことを言われても不信感をぬぐえないと思う。最近でもLEDや水素エネルギー、iPS細胞などさまざまな科学の技術革新は行われているじゃないか。そう、当たり前のように技術革新は行われている。枯れたエネルギーは補填できる。リソースをつぎ込めば科学はまだまだ発展する。その可能性を否定はしない。
問題は”経済”というヤツだ。厄介なこの回し車は回し続けなければ生きていけない。まるで大型の回遊魚のようなヤツだ。現代科学の技術革新に問題があるとすれば、つぎ込んだリソースほどこの経済という回し車を回せなくなっていることだ。
・学問の経済性
前章で学問の科学化と商品化、経済化の流れをあげた。再度まとめてみよう。
科学の繁栄→学問の科学化→科学技術の大衆化→科学技術の商品化/経済化
商品化/経済化にあたり科学”技術”とすり替わっているが、科学とは学問である。学問であるからには普遍性を持つ。どういうことか? 経済の下に”特許”などと保護されてはいるが、”学問”とはそれを求める全ての人に隔てなく普及するべきものなのだ。
ここに”学問”と”経済”の相容れない性格があらわれる。先端科学は革新的な経済商品を生み出す。経済はその革新を手の内へ収めようとするが、科学という学問は自らを普遍化し、飛び立ってしまうのだ。
・科学技術の枯渇とは
ならば、こうも考えられる。科学技術は枯渇したのではない。世にあまねく浸透したのだ。戦時の異常投資によって、特定箇所に掻き集められた科学という学問は、水が低きに流れるように広く世に浸透したのだ。言うなれば、現代の科学は経済という甕の中でのみ枯渇し始めているのである。
もちろん、「もう無駄だからその甕に水を入れるのはやめよう」などと言いたいわけではない。それなしに学問の革新は起こりえない。これは件の記事の問題の一つでもある。彼らが行っている提言は「人文社会科学系の学部に水をやるのは、無駄だからもうやめよう」ということだ。
2.経済と学問のバランス
・経済という甕
学問は水が低きに流れるように世に広く浸透する。ならば経済と学問は相容れないのか? もう一度経済を考えてみよう。思い出してほしい、経済化と大衆化は繋がっている。科学技術の大衆化を助けたのは経済化である。何のことはない。経済という甕には最初から蛇口が付いているのだ。
ならば答えは簡単だ。科学技術という経済の甕に注がれるリソースと流水量が合っていないならば、蛇口を閉めればよい。しかし、事はそう簡単ではない。現代の経済社会は蛇口の下に設けた水車が回らねば死んでしまう。
・如何に水車を回すか
科学技術という経済の甕の蛇口を閉めざるを得ない。ならばどうするか? 「仕方がない。人力だ!」この提言が第二の意見を主とする企業(経済企業)だ。
国への要望 将来のイメージ
技術企業=科学への国家投資 =先端を走り続ける技術立国
経済企業=社会的労働力の確保=最適化による国力の維持
現在の日本はこの両輪で経済をまわそうとしている。本論に合わせて述べるならこうだ。「人文社会科学系の甕へ注ぐ水を自然科学の甕へ回す。そして、甕の蛇口を締めることで科学技術の経済流出を抑えめとする。それで回らなくなった部分は人力で補おう」
・人文学は砂漠化するのか
果たしてこんな経済優先のやり方が正解なのか。数十年後、答えが出てみなければナントモ言えない所ではある。しかし、水を絶たれた人文社会科学系の学問は枯れてしまうのではないか。「経済優先の考えは正反対の結果を招く」と國分功一郎も警鐘を鳴らしている。
けれども、今までのやり方で「人文社会科学系の学問が経済を回せるか?」「社会へ貢献できるのか?」と問われれば、残念ながらそう簡単に「イエス」とは思えない。極端な話をすれば、人文社会科学系の学問は既に半分砂漠化している。
だが、同時に私は楽観視もしている。真理を言葉で追究する人文学と言う水脈は簡単には枯渇しない。今、必要なのは掘り起こしと、その受け入れ態勢を整えることだ。
3.学問よ科学を捨てろ!
・学問は枯渇したのか?
ここで再度問いたい。本当に学問の甕は枯渇したのか? 答えは”ノー”である。本論で主張しているのは”科学”という経済の甕が枯渇したことだ。 ならば、他に経済を回しうる甕はあるのか? 現段階ではこちらも”ノー”だ。
当たり前だが忘れないでほしい。学問は科学だけではない。そのほかに利用されず放置されている学問の甕はいくらでもある。ただ、経済がそれを受け入れる形を成していないだけなのだ。
・人文学の不幸
現代の経済水車は”科学”で回る。そのため学問は科学化した。しかし”科学”は枯渇し始めた。ならば、学問を科学から開放してみてはどうか。前章で考察したとおり、学問の科学化はそれぞれの学問領域を細分化/専門化した。
人文学(文章) 人文科学=細分/専門化
使用言語の境界線 →科学化→ 社会科学=細分/専門化
数理学(記号) 技術化 自然科学=細分/専門化
※科学/技術化によって文理の境界は曖昧になり、それぞれの専門性は増した。
確かに、数理学は”記号”を言語として扱うため、専門性/細分性を強く持つ学問領域である。だが、言語をそのままに扱う人文学とは、果たして細分化/専門化すべき学問だったのだろうか? 科学化によってバラバラとなった人文学体系。この辺りに人文社会科学系学問の不幸と、社会貢献への難しさがあると私は考える。
・人文学よ貢献せよ
ここで一つ提言をしてみよう。「人文学に専門家は居ない。いや、居てはならない」 「え?」と思われるかもしれない。「○○の専門家にご意見を…」などとTVで専門家が紹介されるシーンを見ることもあるだろう。だが、そこに居るのは○○という”得意分野”を持つ人文学者だ。
我々は再度問い直さねばならない。文学者は文学だけを学べばよいか? 哲学者は哲学だけを学べばよいか? 歴史学者は? 民俗学者は? 社会学者は? 法学者は? 経済学者は? 政治学者は? 答えは”否”である。
彼らの知識を社会へ活用するためには、あらゆる複合的要因を研究しなければならない。例えば、”ある社会”を研究するには、その文化、思想、歴史、民族、法律、経済状況、政治状況、全てが必要だ。言葉に出来るなら全てが人文学なのだ。
科学化/細分化/専門化された人文学は、それぞれの学問領域が独立し権威を持った。その意味で人文学者は反省せねばならない。孤立した人文学など社会にとっては、ほとんど何の役にも立って居なかったのだ。
※この問題は少なからず理系分野の学問にも当てはまるだろう。もちろんその垣根を越えて活動をする研究者も存在する。応援すべき人文学者はまだまだ居るはずだ。
4.まとめ
本章では現在の学問体系の問題とその解決策を考察してみた。経済化/科学化に特化した現代学問は、他方でその有用性を犠牲にもしていたのだ。次章では、こんどこそ日本の特殊性を考えつつ、未来へ向けての方策を提言したい。
次回へ続く
蛇足...
なんで消えちゃった文章って再度同じように書けないんでしょうね? ついでに各章のタイトルを変えてみた。「文理の対立を煽るもの」関係なくなってきましたから。
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