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人文学を縛る社会の楔 - 大学とはなにか? (5)

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  前章では、現在の学問体系の問題とその解決策を考察してみた。経済化/科学化に特化した現代学問は、他方でその有用性を犠牲にもしていたのだ。本章では、現代日本社会の特殊性を考察しつつ、その学問が有用へと至るための道を探ってみる。

 

  目 次

.現代日本社会

2.日本社会の近代史

3.人文学を縛る社会の楔

4.まとめ

 

 .現代日本社会

 

 脱!科学経済のために

 現代の経済は”科学”で回る。けれども、経済に対し科学は枯渇し始めた。他の学問で経済を回すことは出来ないか? そこで、科学の括りを外せば人文学はより社会へ適合できるのではないか? そして経済が人文学で回るような体制をとることは出来ないか? これが前章のくだりである。

 正直、この疑問符の山を片付けるのはこの議論を誤謬無く終わらせるより難しい。まず学問体系を変えなければならない。そして、経済体制も変えなければならない。それにはまず日本社会を、日本人の意識を変えなければならないのだ。

 

 ・日本社会の文理思考

 ここで日本社会の特殊性を考えてみたい。言うまでも無く、日本社会も科学で経済をまわしている。他国に比べても日本人の科学信仰は強いと言えるだろう。日常会話の中でも「その考えは科学的ではない」などと言う否定論理が通用してしまうほどだ。

 余談ではあるが、この台詞の科学は一体どんな概念を指すのか? 問い詰めてみたい欲求に駆られる時があるがその後のコミュニケーション的な問題があり、試すに至ったことがまだない。

 

 一方で人文系への風当たりは思いのほか強い。「その考えは論理的ではない」と言う否定論理が用いられるが、なぜかこの論理を一般に扱うのは理系の方々が多い印象がある。論理学は人文学の主たるところであるはずなのだが…。

 ここでの「論理的ではない」の論理とは「理系論理ではない」を指しているのだろうなぁと感じる。数理学は記号の世界だ。そこでは1+1=2は絶対の論理だ。一方で文系の論理学に絶対の論理があるだろうか? 言葉に詰まり熟考せねばならぬところである。だから、文系よりも理系の方がこの言葉を使うのだろう。

 

 ・企業に歓迎される体育系と理系の共通点

 体育系と理系の学生。これが日本の企業が好む新入社員像だ。一見相反する二つの系統だが、 ここに先の「論理的ではない」論理を加えて考えてみるとその共通項が見えてくる。

 理系学生は理系論理という”絶対論理”が埋め込まれている。体育系学生は上下関係という”絶対論理”が埋め込まれている。言ってしまえば彼らは”絶対という命令”に従順である。要するに企業にとって彼らは御しやすいのだ。

 

  一方の文系学生にはこの”絶対論理”が存在しない。むしろ、文系学問は学べば学ぶほど多様性が現れる。”絶対”に対して「何で絶対なのか?」という多様化思考が埋め込まれている。経済が順調であり、社員に速度を求める企業にとっては、この多様化思考を非経済的と嫌うのだ。

 この辺りに日本社会での文系学生は”面倒くさい、使えない”と言われる理由があるように思う。それでも文系学生はほんとに使えないのか? いつから日本社会はこのような判断を下すようになったのか。簡単に歴史を振り返って見てみよう。

 

  2.日本社会の近代史

 

 ・江戸時代の日本社会

 江戸時代の日本社会は武断政治から文治政治への転換期であった。文治政治とは儒教的徳治(人の徳によって社会を治める)政治を指す。つまり、人文学的社会体制である。

 また、戸籍を寺請制度として寺院に管理させていた。江戸時代に戸籍を持つほぼ全ての人々が形式上は仏教徒であったのだ。

 ※江戸時代を貧困の時代と見る考えもあるが、明治政府による印象操作があった点に留意されたい。今、日本が世界に誇る歌舞伎、浮世絵など元禄の文化はここから生まれたのだ。

 

 ・明治時代の日本社会

 明治時代に入ると日本にも近代化(科学化)の波が押し寄せた。所謂文明開化である。政治体制も江戸幕府による文治政治から、天皇を中心とした立憲君主制へと移行した。代議士による文理共存の社会体制が始まった。

 また、寺請制度を廃止すると共に廃仏毀釈を推し進め、国教を国家神道へと改めた。ただし、神道国家神道ではその概念が微妙に違う点には注意して頂きたい。

  

  ・大正/昭和(前期)の日本社会

 この時代、日本は富国強兵・脱亜論など欧米列強への仲間入りを目指し奮闘した。しかしながら、結果として太平洋戦争に敗れ、GHQによる占領政策を受けることになる。

 そこでは対社会主義の最前線として、資本主義経済の導入が急がれることになる。また、今話題の憲法の改正や国家神道の解体、国民主権などの思想教育、財閥解体などの社会体制の変革が行われた。

 

  ・昭和(後期)の日本社会

 日本は手厚い資本主義経済の下で高度経済成長を遂げた。そして、経済バブルと(本論で言う)科学技術バブル、双方の恩恵を一度に手にすることになる。この好景気は今日に至る科学技術経済とも言うべき社会体制を築き上げた。これに最適化した社会制度が終身雇用、年功序列、縦割り型の社会である。  

  また、他方でロシア・中国を隣国にもつ日本は、資本/社会主義対立の最前線として、安保闘争学生運動など主義思想の激しいぶつかり合いをも経験している。

 

 平成の日本社会

 経済バブルの崩壊により日本経済は平成不況と言われる時代へ入る。同時に科学技術バブルも停滞を始め、今まで築き上げられてきた社会体制は崩れ始めた。

 先進国としてそれなりに豊かであるはずの日本は今、先行きが見えない社会不安が蔓延している。それこそ、文理が対立し学問が争うようなよく分からない事態を招いているのだ。

 

 3.人文学を縛る社会の楔

 

 ・文治社会、帝国社会、資本社会、科学社会、経済社会…

 近代日本社会の変遷をざっと眺めてみた。ここ150年余りの間にこんなにも社会体制は変化している。そして、科学経済社会が崩れ始めた今、社会体制を構築し直す必要に迫られている

 前章ではそこに人文学の貢献を求めた。人文学で経済を回す。その実現にはどのような変革が必要であるか? 私が思うにそれを行うには現代日本人の社会思想から変えていかねばならない。本項はその現代日本人が持つ特殊思想の壁と、人文学の社会貢献を阻んでいるそれを取り払うための提言であり、私から皆さまへの願いでもある。

 

 ・ハラキリ社会風土 

 第一に、江戸時代から続くハラキリ制度なる責任社会である。現代日本的に言えば立ち直れない社会だ。過失の責任を取ること自体は悪くない。問題は過ちを許さない社会風土である。

 人文学とは言語の学問である。人文学は当たり前に過ちを犯す。なぜなら、言語は正確に伝わらないからだ。それは他者を介在すればするほどに変形していってしまう。悲惨な戦争の原因のほとんどはそうした人文学の過ちが引き起こしたものでもある。

 しかし、それでも、人文学をあきらめないでほしい。過ちを引き起こすのが人文学であれば、それを解決できるのも人文学であるのだ。正確に伝わらないからこその発展もある。人文的問題を直視せず、科学的な絶対理論で穴埋めをすることを止めてほしい。

 

 ・無宗教という宗教

 第二に、現代日本人の持つ宗教への不信と不在がある。宗教は人文学が成し遂げた一大文化遺産とも言える。宗教本体に加え、そこから派生した思想、芸術、音楽など、宗教はさまざまな形で人間を幸福にしてきたことは揺ぎ無い事実なのだ。

 しかしながら、近代の日本社会では仏教の破壊、国家神道の破壊を経て、日本人の宗教観は破壊されよく分からないものにされてしまった。また、新興宗教の反社会的な活動などもあり、日本人の中で宗教の概念は無条件に”悪”とされてしまった。

 もちろん、宗教に入信しろと言いたいのではない。宗教に問題が多いのも事実である。だが、その叡智や功績を無視するのもまた愚かである。科学とは比べ物にもならない年月を積み重ねたその中には、たしかに人を救うものも含まれている。

 ※むしろ、反社会的新興宗教はこういった日本人の宗教へ対する無関心という空白地帯に付け入り、勢力を伸ばしているのだ。

 

 ・思想への拒否反応

 第三に、社会の思想に対する拒否反応がある。思想犯という言葉があるように、現代日本人は一般社会の中で自らの思想や政治を語ること、語られることに極端な拒否反応を示す。我々はどこかで思想を持つことが悪いことのように感じている。

 これは、学生運動浅間山荘事件など新左翼思想家が犯した凄惨な事件に原因がある。彼らの活動は資本主義の社会化へ一応の貢献もしたが、あまりに反社会的な活動を行い過ぎた。彼らの事件以降、一般社会の中で思想や政治を語ることはタブーとなってしまった。

 それでも人文学を修めたものならば、その成果を語り実践したい。そんな思いは必ずどこかにあるはずだ。しかしながら、思想に対する社会の拒否反応はそんな機会を彼らに与えてはくれない。彼らは良きアイデアを持ちながらも口をつぐみ日々を生きている。

 

 ・専門家信仰

 第四に、科学の大衆化から始まった専門化信仰がある。これは前章でも取り上げたが、現代日本人は専門家が大好きである。教育ですらオンリーワンなる専門家を目指せ!と子供に叱咤激励をする。

 だが、考えてみてほしい。暴論ではあるが、専門家とは裏を返せばその分野以外では只の阿呆ということでもある。彼らの”想定外の出来事”への脆さは原発事故で嫌というほど感じたのではなかろうか。そして、押しなべて専門家集団というのは御しがたいものだ。船頭多くして船山登るという諺のとおりである。

 ここでもまた、目前の問題に対して歯がゆい思いや無力感に苛まれている人文学者は多いはずだ。専門家でなければ、権威がなければ、その発言は社会に認められず許されない。どうか人文学という専門無き学説にも耳を傾けてみてほしい。

 

 4.まとめ

 本章では、日本社会の歴史を振り返りながら、現代社会における人文学の現状を考察してみた。 何故政府や企業は文系学生を”使えない”と判断するのか。確かに文系学問は科学経済と直接的な繋がりに欠けるのは事実だ。

 しかしながら、現代の日本社会は文系学生の研究成果を、さまざまな形の枷で縛り上げている事実を忘れてはならない。現代日本の文系出身者の多くは手枷/足枷/猿轡をはめられた状態で社会へと放り出されている。この現状を認識してほしい。

 

 だから、日本社会の為政者よ、企業の経営者よ、社会の管理者よ、職場の責任者よ、日本の社会思想よ、少しだけ、もう少しだけ人文学を認めてやってほしい。確かに人文学は過ちを犯してきた。それでもその罪の裏側には私たちが当たり前に享受している功績が確かにあるのだ。社会にとって人文学が使えない学問なのではない。人文学の成果を使えていないのは他ならぬ貴方たちでもあるのだ。

 

 ちょっとまとめが長くなった。概略的にこれで終えても良いのだが、もう少しだけ続けようと思う。次章は、脱科学化した人文学で経済を回す。その具体例を考察して本論の結論としたい思う。

 

次回へ続く。

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蛇足...

 疲れた果てしなく疲れた。本章は途中で項順を入れ替えたり直したりでガタガタであったが、果たして形になったのであろうか。そして、文字ばっかりになってしまった。でも図解できそうなところも思いつかない。

 もう適当に形になったから公開してしまえ! 気になったら後で直せばいいや!というのはブログの怖いところである。だがしかし、今はただ水切り石のようにネットの水面へと勢いよく投げ込むのみだ! 変則回転をかけた薄平べったい記事だ。きっと何度も空中を跳ねるに違いない! 後悔なんて楽しみにとっておけ!

 そして、参考文献を持たない本論の挑戦に、私の頭の中も既にガタガタである。結論…そんな具体例なんて出せるの? まとまるの? この風呂敷畳めるの? ねぇ! もうそんなことはどうでもいいんだ...今はただ一発ドボンと沈んだ記事のその波紋を呆けて眺めているのだ。

 

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