学問の科学技術バブル - 大学とはなにか? (3)
前章では、文理分断の歴史を考察してみた。箇条書きにまとめてみる。これだけで文系学問の現代の不利を悟れるのではないだろうか。
・近代戦争によってリソースを得た理系学問の興隆。
・科学技術の大衆化による理系学問の社会貢献。
・文系学問の内輪もめによる社会的衰退。
さて、本章では 学問の科学化と経済化の流れを考察しながら、現代企業が陥っている状況を学問(技術)の視点から描いてみたい。なお記事の構成上、前章と時代が前後する部分があるのでご注意を。前章と今章はほぼ同時進行と考えていただいた方が理解が早いと思う。
目 次
1.人文学から人文科学へ
2.経済世界の台頭
3.科学技術(学問)枯渇の時代
4.まとめ
1.人文学から人文科学へ
・人文学の数理化
ある時、人文学は奇妙な方向へ学問領域を転換させる。経済学である。言うまでも無く、経済学とはお金(市場)の学問だ。つまり”数字(記号)”の学問でもある。文系学問は理系学問に擦り寄る形で新たな学問領域を開発していくのである。
当然”経済学”という分野は以前からあった。ここは文系学問がその主力を切り替えたという形で受け取って頂きたい。資本主義・社会主義という主張も基は経済をどうするかという話ではあるのだが、より数理化した人文科学として新たな人文学の担い手となった。
・学問の科学化
また、資本主義経済の中で大衆は自分たちの生活を豊かにしてくれる科学に興味を寄せた。 学問もそれに応えるべく、その方向性を極端に科学化している。いわば近年の学問とは、戦中に蓄えられた科学技術の大衆化が目的であったともいえる。
学問に自然科学・人文科学・社会科学という新たな区分けが設けられるようになったのもこのあたりからだろう。この学問領域の再分割は文理に新たな境界を定め、今までの言語による文理境界を曖昧にさせた。
※ここで言う科学化とは何を指すのか? 科学的手法が学問に影響を与えたのは前章で紹介したとおりである。科学の定義もさまざまではあるが、ここでの科学化とは”科学=技術”と捉えてほしい。つまり、本項は学問の技術化と言っても良い。
・文理の再接近
学問の科学化(技術化)によって文系学問と理系学問は再編された。乖離していた両者はその領域を曖昧且つ、細分化させてゆく。人文学は”経済学、商学”を代表するように記号化し、理化学は、”情報学・工学”を代表するように言語化されていった。
この再編によって各学問はより専門的となった。人文学においては言語の記号化が進み、分野によっては専門知識なしでは難解な記号学問となった。逆に数理学においては、記号の言語化が進み以前よりは大衆へ近い言語学問となった。
※この点においては数理教育の成果ともいえる。ただし、”教育”つまり、人文学による数理記号の翻訳がその背景にはある。目立たないが評価できる人文の成果である。
人文学(言語) 人文科学=細分/専門化
使用言語の境界線 →科学化→ 社会科学=細分/専門化
数理学(記号) 技術化 自然科学=細分/専門化
※科学/技術化によって文理の境界は曖昧になり、それぞれの専門性は増した。
2.経済世界の台頭
・科学技術バブル
科学技術の大衆化はどのように行われたのか。これは今も昔も変わらない。商品化である。唯一昔と変わるのは資本による企業の存在だ。戦争を解して溢れんばかりに蓄えられた科学技術は、企業の手により次々と商品化され、それぞれが飛ぶように売れた。
この”科学技術バブル”と言うべき現象は、凄まじい利益を企業に生み出すと同時に、早い者勝ちとも言うべき状況を作り出した。企業は如何に技術者を集め、資金を集め、新技術を素早く商品化するか。いわゆる掻き集め活動に終始することになる。
・経済学の台頭
この企業活動を手助けしたのが、経済学を代表とする人文科学の新部門である。彼らは需要と供給、社会リソースの配分、投資の推進など、人文科学的分析によって企業活動を後押した。だが、一方で投資、投機の過熱により経済恐慌を引き起こした負の実績をも併せ持つ…。
彼らの試みは結果的に大変な富を生み出した。経済という歯車は回せば回すほど利潤を生み出した。当然ではあるが、その富は戦争を解して蓄えられた科学技術リソースに依存する。科学力は経済力を後押しし、経済力は政治力を後押しし、政治力は国力を後押しし、国力は国際関係を優位なものとした。
・科学技術バブルの崩壊
当然ではあるが、この経済の好循環はいつかは終わる。このバブルを支えていたのは、科学技術の存在である。使い続ければいつかは枯渇する。戦時中の様な他を犠牲とした科学技術への異常投資は既に無くなっているのだ。
この経済体系の歯車は欠けつつある。世界は緩やかな不況を迎えることになった。この現象を経済学では”物が溢れた”などと表現する。しかし、学問の視点からみると、新製品を生み出す科学技術(学問)が枯渇し始めたからだと言えるのではないだろうか。
戦時中(異常) 戦後 現代
科学技術へ投資 → 経済へ投資(好循環) → 経済不況(悪循環)
科学技術の興隆 科学技術/学問の大衆化 科学技術/学問の枯渇
3.科学技術(学問)枯渇の時代
・現代企業が求めるもの
蓄えれていた科学技術は枯渇し始めた。すると企業は自前で技術を育てなければならない。それは新製品開発技術ではない。新製品開発のための基礎技術を向上させる必要に迫られたのだ。それは、すなわち”先端科学”の育成である。
これは企業にとって非常に重い負担となる。新製品の開発コストは大幅に跳ね上がった。にもかかわらず、投資と投機によって経済は廻り続ける。そして、大衆は生活を豊かに変える”革新的製品”に慣れてしまっていた。
・再考:悲鳴を上げているは誰か?
ここで一度、第一章に立ち戻りたい。第一章では学生/卒業生(労働者)の悲鳴を聞いた。彼らの悲鳴は社会不安によるものであった。
争いの当事者である学生/卒業生(労働者)の求めるものと言えば、就職先であり、社会的地位であり、金銭的報酬だろう。即物的すぎるだろうか? ならば、文系の意見を汲んで、そこから得られる人間的幸福といっても良い。
つまり不足しているパイとは人間的幸福ということになる。ということは、それが満たされない要因は社会不安とも言ってもいいだろう。彼らの悲鳴は社会不安によるものであったのだ。
そして、そもそもの問題提起はこちらである。
文科省の審議会の一つ(「国立大学法人評価委員会」)は、国立大学における教員養成系および人文社会科学系の学部の廃止を提言し、より「社会的要請の高い分野への転換」を求めた。他の類似組織でもこれを後押しする提言が行われている。
今までの状況を踏まえて、ここから企業側の意見を読み取ってみよう。一つ目の意見は、「科学(技術)全盛の時代をもう一度!」という意見である。端的に言えば、「国家がリソースを科学(技術)へ再度重点投資せよ!」ということだ。枯渇し始めた科学(技術)を再び国家が補填すれば、企業はそれを基に革新的な商品が開発でき、経済の歯車が回るのだ。
二つ目の意見は、もはや一部の先端学問を除いて「科学(技術)で経済は回せない」という意見だろう。科学(技術)の貯蓄は尽きたと考える彼らにとって、もはや科学(技術)は魅力的なものではなくなった。彼らはより現実的に経済をまわす方策に期待する。
・実は悲鳴を上げていた現代企業
これは極論ではあるが、第一の意見を主とする企業にとって必要なものは優秀な学生ではない。革新的な商品を生み出す技術だ。科学(技術)に頼る彼らはその枯渇を恐れている。
そして、第二の意見を主とする企業(経済企業)にとって必要なものは経済を回すための何かだ。提言書を見る限り、それは単純な社会的労働力を指している。科学(技術)を捨て、経済活動に頼った彼らはその歯車を必死でまわし続けなければならない。
国への要望 将来のイメージ
技術企業=科学への国家投資 =先端を走り続ける技術立国
経済企業=社会的労働力の確保=最適化による国力の維持
・日本政府の対応
この記事から政府の動向を窺い知ることは出来ないため、ここで政府への言及はやめておこう。だが、官民共同開発などの話は既に耳にする。移民の受け入れ等で労働力の確保に応えようとする活動もあるようだ。
※今回は日本を例としているが先進国全体がこのような問題を抱えているのではないだろうか。背景はどうあれ、産業の空洞化などは良く耳にする事態だ。蓄えた科学技術の枯渇に対する各先進国の舵取りが注目される。
また、この理論に従えば極端な話、戦争を始めてしまえばリソースを極端に科学技術に割り振ることが可能となる。この時代まさかそのような国は……?
4.まとめ
本章では、学問の科学化と経済化。それに伴う科学技術バブルを考察してみた。しかし、科学技術が枯渇しバブルは崩壊しつつある現代で、実は企業も体制を維持できず悲鳴を上げていたのだ。次章では(すっかり忘れていた)日本の特殊性を添えつつ、未来へ向けての方策を提言してみたい。端的に言うならば「本当に学問は枯渇したのか?」ということだ。
次回へ続く。
蛇足…
まだ終わらない。次こそは…。そろそろボロが出始めた気がします。なるべく簡単で平易な文章を書くように心がけているのですが、自分が分からない部分は難解な言葉遣いで押し通してしまうのだ。なんか読みやすくする方法はないかな?
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