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なんちゃっ哲学はじめました

テキトーに哲学史の話をしよう - 第11回 懐疑論‐ローマ‐新プラトン主義編

  西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫 (33-636-1))

はじめに

 「哲学って何? 食べられるの?」っと哲学が一般に良く分からないモノとされている原因は、”今”に繋がる哲学史が一般に理解されていないからという気がします。なんちゃっ哲学を騙る当ブログではありますが、実は私もその辺は大昔に概論しかやっておりません。

 そこで哲学を知りたければ哲学史を学ぶのが一番だ! っと言うわけで、今日はちょっと初心に帰って哲学史をテキトーに学び直してみることにしようと思います。参考文献はたまたま手に入った『シュヴェーグラー西洋哲学史』です。

 

Q1.懐疑論の哲学とは?

・主観性の方向の最も徹底したものが懐疑論である。これは主観と客観との間の橋をまったく破壊し、すべて客観的な真理、認識、および学を否定して、その賢人をしてまったく自分自身とその主観的意見とのうちにへ引き込ませるものである。

西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫 (33-636-1))

ストア学派エピクロス学派の次に現れてきたのが懐疑論です」

懐疑論?」

「わかりやすく言うと、客観的な認識は不可能である。だから、私たちが勝手に判断することをやめよう!っというのが懐疑論ですね。そして、その懐疑論プラトン学派に組み入れられて、新アカデミア学派にもなりました」

「不可能だから判断することを止めようって、あきらめちゃうの!?」

イデア論は主観(私)と客観(イデア)の二元論となっていましたが、懐疑論では客観を絶対に理解できないものっと考えないことにします」 

 

Q2.懐疑論の人たちはこう考えた

「万物の究極原理を”認識することはできない” 」

「万物の究極原理は”認識することはできない”ものになりました」

「”認識することはできない”って、それでいいのか?」

ストア学派では”客観的な認識”を真理としていましたが、懐疑論はそれを否定します。正しい認識も間違った認識も同様に”迫ってくる”。だから正しい認識など得ることはできないのだ」

「たしかに、ストア学派の”心に迫ってくる”正しい認識ってのも怪しかったけど、あきらめちゃうのもどうなのよ!」 

懐疑論の目的はエピクロス学派と同じように幸福を得ることです。彼らは認識を諦めることで得られる、平穏こそが幸福であると考えたのです」

 

Q3.懐疑論のまとめ

・客観を到達できないものとして諦め、諦めることによってこそ平穏が得られるとして、諦観の念を勧めた。

懐疑論者をまとめるとこんな感じでしょうか。私たちにとって絶対確実なものはありえない。だからこそ、実際に見えるもので満足しなければいけない。そこで満足することが真の賢者であり、それこそが幸福へと繋がるのだ」

ストア学派は変に理想論的で、エピクロス学派は妙に現実的。懐疑論はなんか達観的になっちゃったね。ここまできたらもう哲学いらないんじゃないの?」

「うっ、痛いところをつきますね。たしかに、ここからギリシャ哲学のスケールはどんどん小さくなっていってしまいます」

 

Q4.ローマ哲学のまとめ

・ローマ人は哲学の発展になんら独創的なものを加えなかった。

西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫 (33-636-1))

「このあたりでギリシャはローマに完全に飲み込まれてローマの州国となりました」

ギリシャという国がなくなっちゃったのか!?」

ギリシャ哲学もローマに輸入されていきました。そこで哲学は一般教養として広まりはしましたが、その議論に大きな発展はありませんでした」

哲学史的にローマは重要じゃないんだ」

「強いてあげるならば、キケロの通俗哲学という名前だけ覚えてください」

 

Q5.新プラトン主義とは

・新プラトン主義において古代の精神は、主観と客観の分裂を克服する一元論的な哲学を作り出そうとする死に物狂いの試みをした。

西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫 (33-636-1))

「新プラトン主義はギリシャ哲学の最後の灯火とも言うべき、ギリシャ哲学の集大成です」

ギリシャという国がもうなくなっちゃったもんね」

プラトンアリストテレスをしてもイデア論は主観(私)と客観(イデア)を一致させることはできませんでした。しかし、新プラトン主義ではついに一つの決着をつける形で一元論が完成します」

「ついに主観(私)と客観(イデア)が一つになるのか!?」

 

Q6.新プラトン主義の人たちはこう考えた

「万物の究極原理は”本源的一者”である 」

「万物の究極原理は”本源的一者”になりました」

「ホンゲンテキイッシャってなんだそりゃ?」

「客観的認識を正しく認識するためには、私自身が客観的認識にならなければいけない。つまり、Aを正しく認識するということは、私がAになるということ。これが真に正しい認識ということです」

「まぁ、Aを正しく知るってことはAになるってことでもあるよね」

「このように正しい認識を繰り返していくと私=A、A=a、a=あ、あ=万物の根源。というように最終的に万物の根源に行き着くことになります。これを逆を辿れば、すべては万物の根源から流れ出ているということに。つまり、私=万物の根源=本源的一者ということです」

「え? それって…?」

「そう、神様です! ババーン!!」

 

Q7.新プラトン主義のまとめ

・新プラトン学派の哲学は一元論である。したがって、古代哲学がすべての存在を一つの究極根拠へ還元しようと努力しているかぎり、その完成である。しかしそれは、すべてを絶望的に飛び越えたに過ぎない。

西洋哲学史 (上巻) (岩波文庫 (33-636-1))

「新プラトン主義は主観と客観の二元論を克服するために、哲学を一周して神的発想に行き着いてしまいました。これは台頭してくるキリスト教の影響を受けている部分もあります」

「確かに、主観(私)と客観(神様)が一緒になったかもしれないけれど、ギリシャ哲学って”自然を説明する原理を神様以外から見出すこと”だったじゃない」

「そうなんです。ギリシャ哲学は神様以外で自然の原理を説明しようした結果、物凄く遠回りして神様に帰ってきちゃったことになります」

「哲学理論の流れはわかったけれど、結局神様ですか。なんか釈然としないような......」

「この先の哲学もこの流れに順ずるように、キリスト教的スコラ哲学が主流となっていきますよ」

 

 つづく

 

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