Baicaiの欠片

なんちゃっ哲学はじめました

書くことが好き?

 

 ようやく、評論「大学とは何か」が結論を向かえた。最初は6記事も連載するようなつもりはまったく無かった。さらっと言いたいことだけ書いて終えるつもりだったのだ。しばらくはダラダラしたい。

 

  そもそも、このブログはTV番組「哲子の部屋」が標榜する、「哲学」と「娯楽」と「反常識」の"Hybrid Edutainment"を目指していたはずなのだ。それなのにどうしたことか、先の記事は内容も硬すぎるじゃないか。そして、文字数を鑑みれば『暇と退屈の倫理学』よりも長い。まったくどうかしてる。おかしなことだ。

 

 こんなブログをやっている人は書くことが好きなんでしょう? そう思われるかもしれない。 実際に世に数多いるブロガーなる人たちは書くことが好きなんだろうか? 正直私は書くことについてあまり良い感情を持っていない。どちらかと言うとツライ、メンドクサイの割合のほうが大きい。

 

 じゃあ、何でブログなんて書いているのか? その問いに答えるならば「文系だから」だろうか? 前にも紹介したが國分功一郎はこう語っている。

 私自身は必要があって哲学に取り組んだのである。そして人生における難問に立ち向かう上で重要な認識を私は哲学から得た。

哲学の先生と人生の話をしよう あとがきより抜粋

  

 この言葉を逆に取るならば、私たちはそれまでに得た人生哲学で、人生における難問に立ち向かわなければならない。つまり、今の私は「文系哲学」しか持ち得ていない。これで人生に立ち向かわねばならない。だから、とりあえず、考えてみて、書いてみて、思考を文章化してみた。

 

 きっと誰もが自らの思考は素晴らしいモノであると感じている。それは自分そのものだからだ。しかし、それらを文章化、物質化してみる。するとどうだろう? 実にありふれたチープなモノにも思えることはないだろうか。この作業はツラく、面倒くさい内省的行為だ。

 

 けれども、”実にありふれている”からこそ他者と共感できる。問いかけることができる。教え学びあうことができる。なんとなく、文系の学問とはそういうことなんじゃないかと思う。孤高な研究者の大発見など始めから文系学問にはないのだ。

  

蛇足...

 本文自体が蛇足であるのだが...なんだかんだで『哲学の先生と人生の話をしよう』から引用することが多いことに気づく。本書を自己啓発本といってはちょっと失礼だが、自己啓発系の本というのはこういう意味で使い勝手が良いのだろうなぁなどと思った。

 

哲学の先生と人生の話をしよう

哲学の先生と人生の話をしよう