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東京五輪エンブレム問題から考える - 社会人というルサンチマンたちへ

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 はじめに

 東京五輪エンブレムの使用中止が正式決定されたようだ。この話題については以前にも少し触れたが、「なんだかなぁ…」という以外に思いは無い。ただ、日本の社会構造の悪い部分が諸に出てきているなぁという気はしている。

 

  先般の記事ではこの問題を私たちの個人の視点で考えてみた。今回はちょっとキビシメに対象を絞ってこの社会構造を考えてみたい。その対象は「社会人」だ。この手の社会問題を考える上でよく言われる「社会人」って一体全体何者なんだろう?

 

 社会人(しゃかいじん)は、社会に参加し、その中で自身の役割を担い生きる人のことである。一般的には学生は除外される。 日本語以外の諸外国語では日本で言うところの“社会人”をさす言葉はほとんど見られない。たとえば英語では労働者(worker)や成人(adult)、市民(citizen)という単語はあるが、日本語の”社会人”にあたる単語・表現はない。

社会人 - Wikipedia

 とりあえず、Wikipedia先生に聞いてみた。おや、新発見! 所謂「社会人」という言葉はほとんど日本語にしかないらしい。今日はこの「社会人」という立場を疑ってみたい。

 

 1.社会人って何なのさ?

 

 今回の問題などで耳にする「社会人らしくない」「社会人にあるまじき行為」「社会人としての責任」などの台詞から思うに「社会人」という言葉はずいぶん重そうなものだ。また、「社会人は大変、辛い、しんどい」などのマイナスイメージもこの言葉に付きまとう。

 

  ある先輩が就職説明会に参加した後に「いやー、学生ってびっくりするぐらい何も考えてないのなぁ!」なんて感想を得意げに話していた記憶もある。「社会人」たる先輩は「学生」たる後輩を軽く見ている。これは日本社会で固定された観念だろうと思う。

 

 たしかに「社会人」は大変だ。大変な苦労もある。だが、報酬も得ている。ならば、学生は気楽か? しかし、彼らに報酬はない。たしかに「社会人は」大変だ。社会の歯車となり辛い思いをしている。だが、その作業は業務範囲に固定される。ならば、学生は自由か? しかし、彼らの学問範囲に限りは無い。

 

 私は「社会人」には「社会人」の「学生」には「学生」の「子供」には「子供」の辛さがある。そして、そこに優劣はないと感じている。ならば、この日本社会に固着した「社会人」の観念は何だろう?

 

 始めに私の結論を述べておこう。これは「社会人」が作り出した社会における「社会人」のための利権ではないのか? 圧倒的多数である彼らは自分たちのために、「社会人」というタイヘンな身分を作り出して、その他少数身分の人びとに対して社会的優位を得ているのではないか? これが私の結論である。

 

 少々暴論ではある。だから、この結論に至る経緯を検証していこう。

 

 2.社会人の身分難易度

 

 社会人とはそれほどタイヘンな身分なのか? それを検証するには「社会人」の定義を決めなければならない。先のWikipediaによれば「社会人」とは”社会に参加し、その中で自身の役割を担い生きる人のことである。一般的には学生は除外される。”とある。ならば、就職して働いていれば「社会人」であろう。

 

 総務省の統計局によれば、日本の完全失業率は現在3.3%である。この計算方法に少々難があることはあるが、そのまま鵜呑みにするのならば96.4%の人びとが希望すれば「社会人」になることができる。「社会人」身分外である大学生はどうか? 現在の大学進学率は約55%である。ならば、「高校生」ではどうか? 現在の高校進学率は約97%であった。

※参考:統計局ホームページ/労働力調査(基本集計) 平成27年(2015年)7月分結果

   :大学進学率をグラフ化してみる(2015年)(最新) - ガベージニュース

   :高等学校教育:文部科学省

 

 つまり、それになるための難易度で言うならば圧倒的に「大学生」>「社会人」であり、「社会人」=「高校生」ぐらいの身分難易度ということになる。もちろん、身分難易度が高いから偉いというわけではない。だがしかし、それならば何故彼らは「社会人」という社会的優位な身分を得ているのか?

 

 3.社会人が大変な理由とは?

 

 これを読んだ栄誉ある「社会人」の中には「ちょっと待ってくれ、学生と一緒にされると困る!」という方もいらっしゃるだろう。「社会人は大変な責任と苦労を背負わされているんだ!」と。「仕事を遊びみたいに思ってる奴と一緒にするな!」という方もいらっしゃるかもしれない。

 

 たしかに、「学生」や「子供」は社会的に保護を受けている。それを支えているのも「社会人」だ。だが、栄誉ある社会人のあなたもその保護を受けてきたはずである。それを引き合いに社会的優位を主張するのは如何なものであろうか?

 

 また、「社会人」が背負うという大変な責任と苦労についても考えてみたい。彼らの言う社会人の背負うものとは「社会的自立、仕事優先の生活、社会的な人付き合い」ぐらいだろうか?

 

 学生に置き換えてみよう「学生的自立、学業優先の生活、学生的な人付き合い」である。自立と言う面に関して社会的保護があるのは認めよう。だが、以下2点については社会人と学生の差を見出すことは出来ないように思える。

 

 実際に「社会人」の生活、人付き合いは大変である。だがしかし、その大変な「生活、人付き合い」を強要しているのも同じ「社会人」であることを忘れてはいけない。決して、「社会人」は「学生・子供」のために大変な「社会人」を強いられているわけではない。

 

 そして「社会人」には同時に、その大変な「社会」を変える権利も与えられている。つまり、大変な「社会人」は大変な「社会人」のために、大変な「社会」の中で大変な「社会人」であることを強要されているのだ。だから、そこに社会的優位を主張する根拠はまったく無い。

 

 4.社会人利権を考え直せ!

 

 ここで私が主張したいのは、社会人の身分を低下させることではない。”日本社会における「社会人利権」のような観念が固定している社会構造を考え直さなければならない”ということである。

 

 大変な「社会人」とりわけ、社会的弱者の立場に追いやられた「社会人」は本当に大変である。彼らはその辛い立場を数的弱者である「学生・子供」などを見下し自らの社会的優位を主張することで鬱憤を吐き出している。しかし、そんな場合ではないのではないか?

 

 私は今の日本社会を住みやすいとは思わない。だから、「社会人」たる私たちが「社会」を変える努力をしていかなければならない。そのために「社会人」は上記のようなルサンチマンであってはいけないのだ

 

 また、なんとなく与えられている”社会人利権”をいつのまにか行使しているように、私たちは社会の中で与えられる利権に非常に弱い。一度それを与えられれば、それに必死にしがみ付かなければ「社会」ではやっていけない。そうすることが「社会人」であるとすら思える。

 

 だから、「社会人利権」のようにいつのまにか与えられている利権について、一度立ち止まって考え直してほしい。それは本当に社会的に正当なものなのか? それは「社会人利権」のようにあなたを「社会人」というルサンチマンへ縛るための非社会的利権ではないか?

 

 5.結論

 

 この利権という社会構造の闇は根深く暗い。容易に解きほぐせる問題ではない。けれども、今回のエンブレム問題のように”大きく情けのない社会問題”となる前にその構造を考え直さなければならないのではないだろうか。

 

 そのための第一歩として、「社会人」として「社会人利権」を解き放つところから始めてみてはどうだろうか。社会における身分に差は無い。子供も学生も社会人も等しく”社会を構成する人間”である。

 

 以上が世の中の「お偉い社会人様」へ「場末の社会人」が送るルサンチマン的提案である。

 

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蛇足...

勢いで書いた。当然勢いで公開する。多分後で直す......。