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なんちゃっ哲学はじめました

國分功一郎を読んでみた - 暇と退屈の倫理学 (結論)

暇と退屈の倫理学

  結論

 さて、結論である。7章にわたり考察を続けてきた「暇と退屈の倫理学」もついにページが尽きた。当たり前ではあるがそこに明確な答えはない。本書を哲学書と分類すべきかは議論が残るが、哲学書とは自己啓発書ではない。本書は講義録の性格が強いためなおさらである。

 本書の結論は驚くほど短い。だが、それがきっと筆者の答えの現れだ。その結論をここでアーダーコーダーと言うことも出来なくはない。でも、それをするのは無粋であろう。だから、筆者が示した簡単な3つの答えと、本書に対する私の感想でこの考察を締めくくりたいと思う。結論のロジックは是非本書でご覧あれ。

 

では、以下要約という名の感想。

  

Q1.結論

思い煩う必要はない。あなたは既に何事かをなしている。

贅沢を取り戻すこと。贅沢とは浪費であり消費ではない。

動物になること。とりさらわれる瞬間を待ち構える。

 

Q2.おしまい

 終わった。終わってしまった。さしあたって述べるならばこれだけだ。「この本はすばらしい本だから是非読むといい。きっと貴方のためになる!」そんなことはこれっぽっちも思っていない。けれども、それだけで終わると殴られそうだからもう少し語ろう。

 

 本書は、例えるならば「暇と退屈」という西回り航路に挑んだコロンブスのようなものだ。「原理論、系譜学、経済史、疎外論、哲学、人間学、倫理学」とあっちへフラフラこっちへフラフラ。「発見!」もあるが「難破・座礁」もある。船酔い必須の冒険である。

 そして苦労して導かれた先は西インド諸島だ。そこには金も香辛料も見当たらない。なんかよく分からない先住民が居る島だ。忙しない社会から見れば、「無駄な冒険」「大赤字の不良債権」「ならず者の夢物語」と思えたとしても無理はない。現時点でとりあえず「暇と退屈の倫理学」という冒険はここで潰えた。

 

 だが、この冒険譚を読み終えた今、私の頭の中にもやっとした不思議があるのだ。それが得がたい貴重なものなのか、さっさと埋めてしまうべき穴なのか、どうしたらいいのかさっぱり分からない。

筆者はあとがきにてこう語っている。

この本は人に「君はどう思う?」と聞いてみるために書いた。

  私もこの意見を踏襲したい。「この本を読んで私はこう感じたんだけれど、あなたはどう思う?」ただ、それが聞きたい。そのために記事を書いている。さしあたっては自己対話を目的として書いた。

 

当然、筆者はこう続けている。

だから、本書を読んで意見をお伝えいただけるととてもうれしく思う。

 もし、本記事を読んで本書を読む機会を持った方がいらっしゃれば、是非著者へ意見を送って頂きたい。それが「暇と退屈」をさらなる冒険へと進めるきっかけとなるだろうから。そして、当然湧き上がる次の問いを最後のQとして本書の感想を終えたいと思う。

 

Q3.だったら、アンタもこんなブログに記事書いてないで、感想でもファンレターでも送ってあげれば先生も喜ぶんじゃない? 大学教授だし講演会とかやってるし会おうと思えば会えるよ? 

 そのとおりである。まったくそのとおりなのだが、それが私には簡単にできないのだ。ブログをはじめるにあたり、最初の恥ずかしい記事で暴露してしまったので今更隠すも何もないのだが…。

「ヤバイ、この人好きだ。逆立ちしても勝てそうもない」この絶対的敗北感!この感覚こそ久しく忘れていた読書の醍醐味ではあるまいかと思うわけです。

 

 これである。正直なところ、無知な私は恥ずかしくてとてもこのお方の前に出られない。今は手の届かないところであってほしいのだ。だから卑しくもこんなところで陰口をたたいている。自分で言うのもなんだが、これが男の情けなくも可愛いところだ。男性の皆様には案外賛同して頂けるのではないかと思う。

 

  だから、最後に國分功一郎ファンとして『哲学の先生と人生の話をしよう』を読んだ友人に向けて、こっそりと本音の感想を送ろう。「何があったか分かるか? 俺、シンディー・クロフォードと寝たんだぜ!」今はとりあえず、これで完璧である。

哲学の先生と人生の話をしよう

哲学の先生と人生の話をしよう

 

 

蛇足…

 これを書くべきなのか、秘すべきなのか。文字通り蛇足なので悩むところではあるが、「これをもって環世界の広がりを獲得したのだ!」とか簡単な結論には至ってほしくはないなぁとは思う。
 最後になりましたが、ここまでお付き合い頂きありがとうございました。拙い私の試みではありましたが、新たな出会いの一助となりました。皆様にとってもそうあれば幸いです。 <了>
 
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