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Baicaiの欠片

なんちゃっ哲学はじめました

詩文で今の世の人の頭を叩くことは可能か

  古来より、詩文は人びとの心を揺り動かしてきました。それは言葉を覚え、文字を学んだ人間が初めて見聞きするものが詩文だからではないでしょうか。

 

 文字の無い世には詩を吟じ、文字のある世では文をしたたむ。その中心には初めて文字を用いる喜びがあり、その喜びを消費する場として、詩文が存在しました。

 

 詩を用いて感情に震え、文を用いて教養を磨く。時代とともにそのありようは変われども、時に猛々しく、時に実直に、時には絢爛として、詩文は人を行動へと衝き動かしてきました。

 

 しかしながら、時代とともにその役割は変わってきたように感じます。今では詩は言葉少なくなり、文は娯楽となりました。映像という文化が跋扈して、詩文はその役割を終えたようにも思えます。言葉を得た喜びは映像にて消費されているのかもしれません。

 

 今日の私たちはたしかに言葉を習い、文字を覚えます。でも、外国語を学べども話すことのできない私たちのように、今の私たちは私達はそれを用いるチャンスがありません。結果、それを用いる喜びを知らぬまま生きているのではないでしょうか。

 

 文字を用いる喜びを知らないがために、感情に震えず、教養を学ばず、ただ娯と楽に生きている。だから、こころざしを持てず、いつくしみが乏しく、私欲におぼれやすい。そんなふうに今の人たちを思うのは偏見でしょうか。

 

 もちろん今の世がそれをさせないということもわかります。でも、そんな忙しない世を変えてきたのが詩文の力でありました。しかしながら、今の詩文にそんな力が残されているのかと、時折ふと疑問に感じてしまいます。

 

 はたして、詩文で今の世の人の頭を叩くことは可能でしょうか。はたして、今の世の人にそれは通じるのでしょうか。文字を用いる喜びを知らぬ人びとへは、別の方法を考えるべきなのでしょうか。

 

 時代はゆるやかに下ります。 それでも、楔を打ち込むように文字を投げこむ人が居ます。それでも、詩を用いて感情に訴える人が居ます、それでも、文を用いて教養を磨く人が居ます。そういう人たちが放つ言葉に少し耳を傾けてみてください。

 

  忙しない世のなかです。下り坂かもしれません。踏ん張る力もありません。そして、最良の方法では無いかもしれません。でも、そうすることで少しだけ角度が変わるかもしれませんから。

 

蛇蛇足足…

こういうのを始めると何のブログだかわからなくなるな...。まぁ二匹目の泥鰌だ。この際気にはしまい。