Baicaiの欠片

なんちゃっ哲学はじめました

子供の読み方、大人の読書法

 こんなブログを始めてみた。始めた理由は勉強になるかなと思ったからだ。目的もなく本を読むよりも記事を書くつもりで読んだほうが身になりそうだ。そんな理由だ。だから、今の私の読書法はメモをとりながら本を読む。

 

 ブログを始めた当初は一冊の本を普通に読む。メモを取りながら再度読む。記事を書きながら三度読む。っというまじめっぷりだった。当たり前であるがこのやり方は頓挫した。一冊の本を読むのに手間がかかりすぎていたからだ。

 

 まだブログを始めて3,4ヶ月程度しかたっていないが、今はだいぶ省略して、メモを取りながら読む。適当にメモを見ながら記事を書く。という行程に短縮された。読書メモはあまり考えずに適当に取っているため、結構な分量になることもある。

 

 けれども不思議なモノで、記事を書く段階になると抜き出すべき部分がパッと分かったりする。これを慣れというのか、読書法が確立してきたというのか。なるほど、ブログを続けることで最適化するものだ。っと我ながら感心したりもした。

 

 ところが、冷静になってこの読書法が進化したのか?っと問われればハテナが浮かぶ。所要時間は減った。作業に最適化した。しかし、読書密度はどうだろう。当初の目的である”勉強になる”は達成されているのか。

 

 ここまで考えて過去の読書法を振り返ってみる。初めは娯楽のための読書だった。次に学習のための読書があった気がする。そして読書の教養化があった。続けて、勉強のための読書、趣味としての読書、資料としての読書が加わっていく。

 

 基礎的な読書法は教養化の辺りで確立したように思う。つまり小説などを主に読んだ楽しんで文字を追うという方法だ。ここでは主に本の体系を読んでいた。前から後ろに文字を追いかけながら全体を把握するという読み方だ。

 

 それにつづく、勉強、趣味、資料としての読書は少し変わる。ここで行われたのは主に欲しい情報を抜き出すという方法だ。ここでは本の情報を読む。読書前に欲しい情報があり、それを書籍の中に探しに行くという読み方だ。

 

 前者を子供の読み方、後者を大人の読み方といってもいいだろう。振り返ってみれば、この読書法の歴史は私のブログの読書法と酷似している。だから、ここでも同じ疑問にぶち当たる。はたして、大人の読書法でほんとうに教養が付くのだろうか?っという疑問である。 

 

  大人の読書法は自分の欲しい情報を探しているだけである。だから、自分が欲していない情報は最適化されてほとんど見えなくなる。これは一般生活でもそうだろう。私達は大人になればなるほど自分が欲しいものだけを目に入れる。

 

 大人の読書法は情報を読んで本を読んではいないのだ。だから、知識を手に入れることはできるが、このやり方で教養は手に入らないのではないか。そんな疑問が浮かぶ。本を読んで頭が固くなる言う現象は、大人な読書法に毒されているのではないのか。

 

 昨今出版不況といいながら、私達はよく文字から知識を得ていると思う。しかし、今の私達には子供の読み方のような、本の体系を読み解く力。そんな力が欠けているのではないか。そのように思う。だから私達は文字に煽られ躍らされやすいのではないか。

 

 ふと、こんな記事を書きながら立ち止まって考えてみるとそのように感じた。だから、時には子供のように本の存在を楽しんで、書籍全体の体系を読む。そんな忘れてしまった読み方も重要なのかもしれない。

 

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