Baicaiの欠片

なんちゃっ哲学はじめました

プラトン先生とハイデッガー先生の邂逅点 -私のイデアは何のために?

   はじめに

 当ブログでは書評と称して『暇と退屈の倫理学』『哲学の自然』などを読んできた。当然ながら私も國分先生、中沢先生推しではあるのだが、上記2書を読んでみてなんとなくハイデッガー推しでプラトンDisな本であったなぁと思う。

 

 こうなるとへそ曲がりの私としては、ちょっとプラトン先生が可哀想になってくる。もちろん、上記二書はプラトン先生の偉大さを十分に理解した上でそういう理論を展開している。両者を決定的に理解していないのは私だ。それは分かっている。

 

 けれども、そんな私がぼんやりと感じたプラトン先生とハイデッガー先生の思考の境目が擦れあう地点を今日は語ってみようと思う。素人には素人なりの読み方があるとドゥルーズ先生もおっしゃっていたではないか。

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 1.プラトン先生のイデアとは?

 

 まずは、プラトン先生の言うイデアの定義から始めてみよう。イデアとは何だろう? とりあえず、wikipedia先生に聞いてみた。

 本当に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界というのはあくまでイデアの《似像》にすぎない、とする~プラトンが説いた学説。

イデア論 - Wikipedia

 

 要するに、物事の本質がイデアだ。プラトン先生によればイデア界という真理の世界が私たちの世界の外にある。私達はイデア(真理)を認識するために知識を必要としており、私達は知識を要して世界外存在であるイデア(真理)に触れようとしている。

 

 2ハイデッガー先生の世界内存在とは?

 

 つぎに、ハイデッガー先生のいう世界内存在の定義を見てみよう。世界内存在とは何だろう? とりあえず、wikipedia先生に聞いてみた。

 これは人間が実存することの意味であり、人間が存在する形態の根本構造を意味する言葉である。人間というのはいかなる反省にも先立って存在し、しかもその多義的な現存を各自が引き受けるということによって本質的に、そして何らかの世界の内においてこの世界を理解しつつ存在せざるを得ないということである

世界内存在 - Wikipedia

 要するに、私たち人間の存在のあり方を示した言葉が世界内存在である。世界は「何かは何かのために」という「目的-手段」のネットワークを形成している。そして、私にとって私の世界とは「私のための何か」というネットワークに他ならないということだ。

 

 3.プラトン先生とハイデッガー先生の邂逅点

 

 お二人の主張をあわせて考えてみると以下のようになる。

 私という閉じられた世界内存在である私は、世界外存在であるイデア(真理)を認識するために知識を欲している。

 ちょっとまどろっこしい言い方だ。言い換えてみると「私は世界外の存在であるイデアを認識しようと欲している」ということになる。ならば、世界外の存在とは何だろう? それは「私のために存在しない存在」である。つまりは他者ということだ。

 

 4.他者とイデアの関係性

 

 前章をまとめると以下のようになる。

「私は他者のイデアを認識しようと欲している」

 ちょっと良くわからない。だから、ここは今一度プラトン先生に戻ってみよう。イデアとは物事の本質である。他者のイデアとは「他者の本質」である。つまり、「他者の本質」を認識することが私の本質であるということだ。

 

 整理して考えよう。閉じられた世界内存在である私が世界外存在である「他者のイデア」を認識することで私の本質へと近づいていく。そんな行為を私達がなんと呼んでいるか? 私達はこれを普段アイデアが浮かぶと呼んでいるのではないだろうか。

 

 5.アイデアイデアの関係

 

 他者の本質(イデア)を受け取り、それを「私の世界内存在(私のために)」へと組み入れて生まれてくるのがアイデアだ。ならば、アイデアを行使して相手が欲していることを実現すること。それが私のイデアでもある。

 

 これは何事にもいえるように思う。人のイデアを受け取り、それをアイデアとするのが友人であり、お客のイデアを受け取り、それをアイデアとするのが仕事であり、国民のイデアを受け取り、それをアイデアとするのが政治であるといえる。

 

 6.私のイデアは何のために?

 

 それならば、私達の本質とは何だろう? この場合、私のイデアを受け取り、それをアイデアとして実現させることが私達の本質ということになる。私のイデアとは「アイデアを行使して他者が欲していることを実現すること」である。

 ならば私達の本質とは、「アイデアを行使して他者が欲していることを実現すること。そして、それを私のためのアイデアとしていくこと」ということになる。

 

 プラトン先生によればイデアとは「存在および現象界の不変の原理」である。つまり、「他者が欲していることを実現すること。そして、それを私のためのアイデアとすること」が誰にとっても等しく同じである究極の原理であるということだ。

 

 7.まとめ

 

 閉じられた世界内存在である私たちは、世界外存在である他者のイデアを認識することでにアイデアという新しい力を獲得することができる。そして、そのアイデアを行使して他者が欲していることを実現すること。それこそが私のイデアを認識していくことでもある。

 

 私の世界は「私のための」道具連関にすぎない。けれども「他者のために」を実現して「私のために」へと変えていくことで、私の世界は少しずつ拡がっていく。それを繰り返していくことで、私たち一人ひとりが持つ別個の世界内存在たる世界の形はおのずと同種の真円にたどり着くのではないだろうか。

 

 プラトン先生もハイデッガー先生もそんなことを言いたかっただけのような。なんとなく、そんな風に思った。

 

 

蛇足…

なんか結構前から暖めていた割にはイマイチすすまなかった…。