Baicaiの欠片

なんちゃっ哲学はじめました

東京五輪エンブレム問題から考える - 知識/情報の出典を隠すカッコイイ私たち?

 今日は適当に時事ネタについて語ってみよう。対象を特定するのは気がひけるが、「2020年東京五輪のエンブレムをデザイン盗用問題」からちょっと今の社会構造を考えてみる。

 

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特定秘密保護法 | Tocinmash|トッキンマッシュ (表絵より)

 

 はじめに

 最近、この手のニュースを多く感じる。STAP細胞や粉飾決済、そして、デザイン盗用。これらの問題には社会モラルの欠如という解答が据えられるのだが、この社会モラルの欠如とはどうして生まれたのか? 

 私はそこに、情報/知識の出典を秘匿する現在の社会構造に問題があるのではないかと感じている。それでは、情報/知識の出典を秘匿する現在の社会構造とはどのようなものなのか。それを簡単に考察してみよう。

 

 モノの時代から情報の時代へ

 近年の社会構造の変化はめまぐるしく、ここ20年あまりでずいぶん変わったように思う。その際たるものが、インターネットの発達によって、情報化社会と呼ばれる社会となり、情報は多様化され、重要視されるようになったことだろう。

 

 私は20年前の所謂”社会人社会”を良く知らないが、そのころの人々の関心はモノにあり、情報はまだゆったりとしたものであったように思える。その頃、私の世代のその日の話題は「昨日のTV見た?」とかそういうものであった。

 

 それが近年、情報が最優先される社会となった結果、情報は秘匿される傾向を強めた。今の私たちの話題は「ねぇ、これ知ってる?」である。 この差はなんだろうか? 下記にまとめて考察してみた。

 

昔のやり取り

「昨日のTV見た?」

=「同じ体験を共有しているか/同じものを持っているか」の確認

=知識の出典を提供し、相手にその経験の有無を確認している。

 

今のやり取り

「ねぇ、これ知ってる?」

=「自分の持つ新しい情報を持っているか/持っていないか」の確認

=知識の出典を秘匿し、相手にその情報の有無を確認している。

 

 知識/情報の出典を隠すカッコイイ私たち

 この一般の人々のやり取りの変化が、近年の情報秘匿社会という構造を良くあらわしているように思える。だからこれは、一部のモラルに欠けた人だけの問題ではない。「秘匿された情報を知っている私!」 「価値のある情報を知っている私!」 

 

 このようにして行われる出典を秘匿し、まず己の持つ情報の価値を高める所から始まるコミュニケーション。得てしてこのタイプのコミュニケーションは、その情報の出典を確認されるのを嫌う。”情報源”はその人にとっての財産でもあるからだ。

 

 しかし、そのような相手の情報源への配慮が求められる社会で、情報秘匿を擁護するコミュニケーションを続けてきた結果、誰もが情報の出典の確認を行わなくなっていった。

 

 そんな社会構造がこのような問題を引き起こしているのではないか? 最近叫ばれている社会モラルの低下とは、”情報/知識の出典を隠したがる人々”の心理が表れたものなのではないか?

 

 まとめ

 私の学生時代のある教授は「レポートでも何でも出典の明記を絶対に忘れるな! それを忘れたら、そのレポートや論文がどんなに素晴らしい内容でも、それは知識の盗用。つまりただの泥棒だ!」と口をすっぱくして言っていた。

 

 当時はメンドクサイと感じる教授でもあった。しかし、こう考えてみれば今になってその重要性が理解できる。確かに情報は貴重な財産でもある。しかし、重要な情報ほど出典を明らかにしなければならない。

 

 それを怠ったツケが上記の問題および社会モラルの低下に繋がっているのではないか? だから私たちも普段のコミュニケーションから「これ知ってる?」を「ここで聞いたんだけど/見たんだけど/読んだんだけど、これ知ってる?」に変えていく必要があるのではないか?

 

 本当にカッコイイのは「情報の出典を隠して貴重な情報を披露している私」か? それとも「貴重な情報の出典を披露して、新しい情報を伝える私」なのか? ちょっと考えてみよう。  

 

蛇足…。

疲れてたわりに結構いい記事書けたじゃん!と思って寝て起きた。文章ガタガタやん! 寝起きの頭で慌てて直す。まぁ、人生そんなもんだろう。

 

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