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なんちゃっ哲学はじめました

評論 「変える」の概念を考える - 自己も制度も原発も憲法も

 はじめに 

 今日の日本の政治は憲法改正の方向へ向かって動いているようだ。とりあえず、憲法の解釈を”変える”らしい。でも、その憲法改正の動きを止めろ!という声も大きい。憲法の解釈を”変える”のを”変えろ”と言うわけだ。

 彼らはお互いに相反する意見を持つが、お互いが同じように”変える”と主張している。ちょっと訳が分からない。だからこそ、始めに我々は考えなければならないのではないだろうか。一体”変える”とはどういうことなのか。

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憲法改正 – 衆議院議員 安倍晋三 公式サイト

 目 次

1.”変える”とは何か

2.存在としての”変える”

3.”変える”の概念を考える 

4.正当に”変える”を主張するために 

5.まとめ 

 

 1.”変える”とは何か

 

 ”変える”とは良いこと?悪いこと?

 どうも、近年の日本は”変える”ことが良いことのように喧伝されてきたように思える。”変える”のは良いことだ! 変えていかなければならない! 自分を変えよう! やり方を改善しよう! 組織を改革しよう! 原発に頼るのをやめよう! そして、憲法の解釈を変えよう!

 

 そんなふうにここまでやってきた。やってきたのだけれど、憲法までやってきて急に我々は気がついた。憲法は守らねばならない! ”変える”のは良くない! だから、憲法改正を進める総理を”変えろ”と言い出した。

 

 こうして見ると訳が分からない。あれ?”変える”のは良いことじゃなかったのか? どうしてみんな急に意見を翻したのか。そして、憲法を”変えるな!”というのに総理は”変えろ”と要求する。主張に一貫性がない。これは筋違いな話ではないのか? 

 

 目的語のない”変える”を考える

 いや、ここで皆様が言いたいことは分かる。”変える”は動詞なのだ。目的語がはっきりしないとそれが良いのか悪いのかなんて分からない。「変えていいものと悪いものがある」そうおっしゃりたいことは良く分かる。

 

 最近、皆が大声で”変える”を主張している。でも、だからこそ、あえて問うてみたい。”変える”とは一体どういうことなのか? それは良いことなのか? 悪いことなのか? この考証にあえて目的語は用いない。

 ”変える”を主張する今だから、純粋に”変える”の概念を問い直してみる必要があるのではないだろうか。一体”変える”とは何なのか、そのことをまず考えなければならない。

 

 2.存在としての”変える”を考える

 

 ハイデッガーの現存在「~のために」から

 ハイデッガーによれば、全ての道具は「~のために」という「目的-手段」の道具連関のネットワークを形成している。そして、そのネットワークの最終目的地は現存在である私である。つまり、道具は私のために存在している。

 

 どういうことか? はさみは”私が”紙を切るために存在している。歯がこぼれ紙が切れなくなったはさみはもはや”私に”とって”はさみ”という存在ではない。同じように世界の全てが私のために存在している。

 

 このように言うと、神の様な存在に思えるかもしれない。しかし、逆に言えば、私という存在は、”私のため”に存在する道具連関の中でのみ存在できる。ちっぽけな世界内の存在であると言うことでもある。

 

 ”変える”という存在を考える

 このようなハイデッガーの主張を信じるならば、”変える”とは何なのかを考えることが出来るだろう。世界内存在の主役である現存在たる私にとって、”変える”とは「私のために」存在している道具連関の一部である。つまり、”変える”という行為は私のために何かを変えているのだ。

 だから、こう考えることが出来る。はじめに述べた”変える”と主張する人々は「私のために”変えろ”」と主張していることになる。

 

 こう書くと、独善的に聞こえてしまう。反感を覚える人もいるだろう。「私はみんなのために主張しているのであって、決して個人的な意見でそういうことを主張しているのではない!」と言いたくなる気持ちも分かる。

 

 ”変える”という道具連関を考える

 ならば、もう少しハイデッガーの考え方に付き合っていただこう。全ての道具は「~のために」という連関で繋がっている。包丁は食料を切るために存在する。鍋は切った食料を料理するために存在する。皿は料理した食料を盛るために存在する。盛られた食料は現存在たる私が食べるために存在している。

 

 これが”私のため”に存在する道具連関という考え方だ。この考え方に沿うならば”変える”は「みんなのために」存在するとも言える。だがしかし、上記のような道具連関の中で「みんなのために」という存在は最終的に”私のために”という存在に帰結するのだ。

 

 だから、”変える”を主張する人々にはまず、このことを認めて欲しい。貴方達が”変える”と主張することは、貴方のために”変える”と主張していることと同じなのだ。私は決してそれを責めている訳ではない。だが、ちょっと冷静になって主張を行ってほしい。

 

 政治を行うにしても、デモを行うにしても、我々は集団になるとその主張に飲まれてしまい、酔ってしまう。だから、時々ふとこの冷や水を思い出して欲しい。貴方達が行っている主張はあくまで貴方個人のための主張であると言うことを。

 

 3.”変える”の概念を考える 

 

 ”変える”の真理を突いた先人

 前項では”変える”の存在を考察してみた。”変える”という道具は、どんな大義名分を掲げたとしても、巡り巡って自分のために存在するということを理解いただけただろうか。そして次に、”変える”とは一体何がどうなることを言うのだろうか? 本項では、”変える”の概念を考えてみよう。

 

 ”変える”の概念とは何か? この難しい問いの真理をズバリ言い放った先人が一人居た。小泉元首相である。”聖域なき構造改革”という”変える”を提唱したこの人は改革についてこう言い放った。

「今の痛みに耐えて、明日を良くしようとする米百俵の精神こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないか」  

 

 彼の行った改革について、私は決して賛同をしているわけではない。だが、「痛み無くして改革なし!」この言葉は真理であると思える。つまり、”変える”とは同時に痛みを伴う概念なのだ。

 

 痛みを伴う”変える”という概念 

 ”変える”とは痛みを伴う概念である。これを疑問に思う方もいらっしゃるかと思う。痛みを伴わない”変える”だってあるはずだ。改善とは良いことではないのか?  これを説明するには、前項のハイデッガーの理論にまた戻らねばならない。

 

 全ての道具は「~のために」という「目的-手段」の道具連関のネットワークを形成している。そして、そのネットワークの最終目的地は現存在である私である。つまり、道具は私のために存在している。 

  ここから”変える”は私のために存在していることが理解していただけたと思う。ならば、何故私のために存在する”変える”が痛みを伴う概念なのか。それを考えるためには世界外の存在に気がつかねばならない。

 

 ”変える”という私のための道具の行使とは、「私の目的-手段」の達成に他ならない。だが、それは共通の世界に生きる他者にとっては”変わった”という結果でしかない。もう一度道具連関を考えてみよう。

 全ての道具は「~のために」存在している。つまり、私のための”変える”という道具の行使は、世界外存在たる他者から見れば、”彼のため”の存在が変えられてしまった。という結果に繋がりかねないのだ。

 

 ”変える”という概念の結果論 

 改善、効率化、進歩、改革。これら”変える”ことによって自分、社会、制度、環境などが良い方へと変わっていった。その積み重ねで人類は発展してきた。そのことを否定はしない。変えるべき悪習は世界にいくらでもある。

 そして、今”変える”を叫ぶ人たちがそのために主張をしていることも理解している。だが、全ての道具は「~のために」存在している。これを忘れてはならない。どんなに理不尽で変えるべき悪習も「誰かのために」存在しているのだ。

 

 だから、それを”変える”ということは、その「誰か」が”痛み”を負う結果となる。先の小泉元首相の「痛み無くして改革なし!」が真理であると言うのはこういうことだ。そうなると、正当に”変える”を主張するならば「誰が痛みを負うのか?」この問題を考えなければならない。

 それをせずに、ただ現状が悪いと感じるから”変える”と主張するのであれば、それは貴方のために”変える”という道具をただ行使しているのであり、他者からの簒奪と言う行為に他ならないからだ。

 

 4.正当に”変える”を主張するために 

 

 痛みを負うべきは誰かという発想

 正当に”変える”を主張するためには、痛みの引き受け先が必要である。なぜなら、”変える”とは痛みを伴う概念だからだ。この構図を簡単に示すならばこうなる。

”変える”を主張する者 =結果として”自分のための道具を得ようとする者”

”変える”を傍観する者 =結果として”自分のための道具を奪われる可能性を持つ者”

”変える”を拒否する者 =結果として”自分のための道具を守ろうとする者”

 まとめてみれば簡単である。これはどんな建前を述べようとも自分のための道具を奪い合う構図であるのだ。 だからといって、私は「これは醜い争いであるからやめるべきである」などというつもりも無い。

 

 世界は絶えず変わり続けている。社会も変わり続けている。それに合わせて我々も変わっていかなければならない。変わらねばならないということは、誰かに痛みを引き受けてもらわねばならないと言うことだ。

 

 ”変える”という暴力性

 ”変える”を主張するために生贄にすべきは誰か? この手の槍玉にあがるのは権力者や超富裕層である。彼らのその立場は”彼らのため”の制度が成した可能性が高いからだ。

 彼らはその恩恵を十分に受けたではないか! 痛みを負うべきは彼らではないか! この発想が革命や反乱、反体制運動が起こされてきた歴史である。それがどのような結果をもたらしたかは、歴史が証明しているだろう。

 

 このような急激な”変革”という主張の結果は、大概大勢の人々に一時的にせよ「大きな不幸」が訪れる。「~のために」という道具連関を止めた後に始まるのは、その道具の奪い合いである。だから”変革”だけを主張する者には注意せねばならない。彼は単なる簒奪者である可能性が高いからだ。

 

 正当に”変える”を主張するために

 ならば、正当に”変える”を主張するために必要なものは何か? それは、”変える”結果、利益を得る者と失う者をはっきりとさせることだ。そして、両者および第三者の納得を得なければならない。

 

 しかし、今日の日本でこの構図が公に議論されることは極めて少ない。とりわけ利益を得る側の情報は隠蔽される。そして、利益を失う者と改革の正当性が主張され、往々にして自己犠牲の美学のような論点に摩り替わる。※これは反体制派も同様である。

 

 私が主張した「正当に”変える”を主張する」このために必要な情報の開示とその承認を実現するには、大変な困難を伴うだろう。今日の社会は複雑になりすぎている。最近安部首相は「説明責任を果たしていかねばならない」と発言している。

 この説明責任が「正当に”変える”を主張する」ための説明責任であれば良いとは思う。しかし、自ら主張しておいてこう言うのも申し訳ないが、今日の日本社会でその実現は難しいだろう。

 

 5.まとめ 

 

 現実的考察と非現実的希望

 ここに来てまとめである。私は「正当に”変える”を主張する方法」を提案し、現実的ではないと否定してしまった。正直なところ、この先どのように議論を進めても、現実的に物事を考えるならば、現実的な結論しか見出すことはできないと思う。

 

 だから、最後に非現実的発想から「正当に”変える”を主張する方法」を提案しよう。その実現には、まず第一にこの構図を破り捨てることだ。

”変える”を主張する者 =結果として”自分のための道具を得ようとする者”

”変える”を傍観する者 =結果として”自分のための道具を奪われる可能性を持つ者”

”変える”を拒否する者 =結果として”自分のための道具を守ろうとする者”

 非現実的発想から「正当に”変える”を主張する構図」は3者全員が以下のような主張となる。

”変える”を主張する者 = 結果として”自分のための道具を世界外存在のための道具とする者”

 

 この構図はどういうことか? 前項で「私はみんなのために主張しているのであって、決して個人的な意見でそういうことを主張しているのではない!」という意見を紹介した。しかし、この意見は道具連関の中で「みんなのために」という存在は最終的に”私のため”の存在に帰結するとも否定した。ここに一つの例外を設けたい。

 

 先に世界内存在という私をこう説明した。

 私という存在は、”私のため”に存在する道具連関の中でのみ存在できる。ちっぽけな世界内存在である。

  この道具連関の中のちっぽけな世界内存在である私。その私の世界の内に存在しながら、世界外存在になりうる存在を想像して欲しい。女性の方のほうがピンと来るだろう。子供である。

 つまり、妊娠状態の女性は道具連関の中の現存在であると共に、その存在は「子供のため」の道具連関の一部でもあるのだ。

 

 道具連関の一部となって主張する

 ハイデッガーの道具連関と現存在の説明のために、妊娠中の女性という特殊な状態を想定したが、この感情は人間の持つ普遍的なものである。小難しい議論をしてしまったが、私が言いたいことは単純だ。

 

 正当に”変える”を主張するもっとも身近な方法とは、「子供のために未来のために主張をしよう」ということである。これだけならば、ありふれた感情的な主張である。

 この主張に正当性を与えるために最も重要なことは、「”変える”という痛みは全て自分たちが負う」という覚悟である。つまり、未来の子供のためにただの道具になれと言うことだ。けっして”変える”を世界内存在たる自らの道具にしてしまってはならない。

 

 ”変える”という主張は必ず痛みを伴う。”変える”ことによって社会の安定が削がれるからだ。だから「変える」と主張するからには覚悟せねばならない。だからこそ、その痛みを自らが全て負うと覚悟したものだけが、正当に”変える”を主張できる。今の日本人の主張に足りないのはこの覚悟だと感じる。

 

 次世代のための”変革”実現に向けて / 最後に

 昭和20年8月15日は我々日本人にとって終戦の日である。戦争の記録は悲惨さだけが色濃く主張される。犠牲者の数、戦争の傷跡、悲劇的逸話。戦後70年首相談話も発表されたようだ。

 これらの出来事や歴史は我々の心に大きく訴えかけるだろう。同じ過ちを犯さないためにも”変わらなければならない!”いや、”変えてはならない!”など、同時に政治問題や憲法問題など議論が盛り上がることが予想される。

 

 しかしながら、人間は利己的である。とりわけ現在の経済至上主義社会の中で、日本人全員が私の提案した「正当に”変える”を主張するもっとも身近な方法」実行するというのは夢物語でしかない。必ず裏で甘い汁を吸う輩が現れるに違いない。皆そう考えるだろう。私自身もそう思う。

 だから、最後にそれを実現しうるために、少しでも次世代のための変革を行うために、以下のことを述べておきたいと思う。前もって言っておこう、このやり方は卑怯である。議論に乗せるべき方法ではない。それでも、卑怯であるが故にそれを自覚した上で言っておく。

 

 これから「変える」を主張するモノたちには以下の心を覚悟してほしい。

 過去の戦争、紛争、革命。その内側にいた名も無き人々。彼らには必ずしも確固たる理念が合ったわけではない。彼らは必ずしも己の利益のためにそれに参加していたわけでもない。

 そんな彼らの心を少しでも見直してほしい。戦争の悲惨さや人間の愚行に目を奪われず。純粋に彼らの心を直視してほしい。彼らはきっとその行動によって「変わる未来のために」と最後は信じて散っていったのだ。

 

 そして、そんな戦争、紛争は今も世界の何処かで起こり続けている。日本社会の内側でもそうだ。そこで苦しんでいる人々は必ず居る。

 だから再度問いたい。「変える」とは何だ? 何をどう「変える」のだ? 何のために誰のために「変える」のだ? きっと、その目的は今であってはならないのではないだろうか。

 

 おしまい

 

 蛇足…

ハイデッガーについては門前の小僧なので解釈が間違っている可能性が大。何かあれば是非ご教授ください。

 

あとがき/編集後記のようなもの

戦後70年談話も一応貼っておこうか

toyokeizai.net