テキトーに語るモダン哲学 - ジル・ドゥルーズ「生きるって何?」
哲学って難解でなんの役に立つのかわからない。そんな感想を持たれるのは古典を読んで哲学を考えるからではないでしょうか? 本来哲学ってあなたの身近なハテナを考えるものなんです。
だから今日はテキトーにモダン哲学を語ってみることにします。現代人が行う現代の哲学ですから、きっと哲学が身近に感じられるはずです。第一回はジル・ドゥルーズを参考に「生きるって何?」を考えてみましょう。
- 作者: クレアコールブルック,Claire Colebrook,國分功一郎
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/02
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 21回
- この商品を含むブログ (18件) を見る
※本記事は筆者の創作の部分がほとんどです。解釈違いなどが多々あると思われますので、少しでも興味を感じた方は是非ご自分でドゥルーズを手に取ってご確認いただければ幸いです。
・はじめに
哲学とはよく生きるための学問
「はい。これが私が進路に悩んで手を取った大学案内に書かれていた哲学科の見出し文でした」
「よく生きるための学問? 相変わらず哲学ってよくわからないね?」
「何となくかっこよく聞こえますけれど、私もよくわかりません。実際に哲学科の講義を受けてみてもよくわかりませんでした…」
「ダメじゃん!」
「後になってわかるのですが、これその時の流行りの哲学文言を持ってきただけなんです。だからソクラテスやデカルトやハイデッガーの講義を受けてみても”よく生きる”方法なんてほとんど出てきません」
・それじゃあ哲学って何なのさ?
哲学とはその時代にもっとも現れた疑問を学問すること
「持論ではありますが、哲学を一言で言い表すならばこういうことになるかと思います」
「その時代に最も現れた疑問を学問すること?」
「分かり易く言えば、”一番身近な疑問を真剣に考えること”となるでしょうか?」
「一番身近な疑問? なんでもいいの?」
「はい。明日何を食べるべきか? 本当に宇宙人はいるのか? 何でもいいんです。本当にそれを解明しようとするならば。ですから哲学に対象はありません。だから時代によって研究する対象がまったく異なってきます」
「だから哲学ってこれっていう対象がないのか!」
・よく生きるための学問という現代哲学
よく生きるための哲学とは、現代人が抱える”生きるって何?”という疑問に答えるために生まれた現代哲学の命題の一つ
「ですから、こういうことが言えるのではないかと思います。この”哲学とはよく生きるための学問”というフレーズは現代人が抱えている”生きるって何だろう?”という疑問に答えようという現代哲学の設問だったのです」
「だから、ソクラテスやデカルトやハイデッガーを勉強してもピンっとこなかったんだ」
「そういうことですね。そしてこの命題を哲学してくれたのがジル・ドゥルーズ先生です」
・ジル・ドゥルーズ
ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze、1925年1月18日 - 1995年11月4日)は、フランスの哲学者。パリ第8大学で哲学の教授を務めた。20世紀のフランス現代哲学を代表する哲学者の一人であり、ジャック・デリダなどとともにポスト構造主義の時代を代表する哲学者とされる。
「そういうわけで、今日はジル・ドゥルーズ先生を参照しながらよく生きるための哲学を考えてみたいと思います」
「これを勉強すればこのつらい現代社会でどう生きればよいのかがわかってくる?」
「分かるかもしれません。期待してみてください」
・そもそも生きるってどういうこと?
「よく生きる方法を考えるためには、まず”生きるというのはどういうことか?” これを考えてみる必要があります。さて、生きるってどういうことなんでしょう?」
「よく”私たちは生きている”って言うけれど、いざ聞かれるとよくわからないね?」
「そうなんです。いざ”生きるってどういうこと?”って聞かれるとみんな答えに詰まってしまいます。案外みんな考えなしに”生きている”っていうんです」
・生きるとは生成変化することだ
ドゥルーズにとって、生の出発点は、純粋な差異と生成変化――にある
「ここで悩んでいても仕方がないのでいきなり答えを言ってしまいましょう!」
「生きるとは生成変化すること?」
「意訳になってしまいますが、概ねそんな感じの捉え方で間違っていないと思います」
「生成変化することが生きること? よくわからないよ??」
「それじゃあ、もうちょっと違う角度から考えていきましょう」
・まず初めに世界があって、その上で私が生きていると考えるのは現代人の陥いりやすい誤りの一つ
ドゥルーズによれば、我々が日常的に使用している概念は表象と意見というモデルに付き従っている。その中で我々は、まず最初に世界が現前していて、その上で我々がそれを概念の中に表象として再-現前するという考え方――を当然のものときめ込んでしまっているのだ。
「最初から世界が存在していて、その上で私たちは産まれて生きて死んでいく。そんな風に考えているのが一般的だと思いますが、ドゥルーズ先生はそれはちょっと違うんじゃないの?っと言います」
「世界の上で生きていると考えるのは間違いなの??」
「間違いではないのですが、”生きる”ということをどう考えるかで世界も変わってくるのです。”私は生きているけれども、私が生きているのではない”っと言います」
「どゆこと?」
「私たちは自我を持つ主体として”私が生きていく”と言いますが、”生きる”という動詞の意味は生成変化することです。つまり、私が生きていくとは、私は生成変化していくということになります」
・”生きる=生成変化”しているのはだれ?
私 が 生きる
=私 が 生成変化する
=生成変化した私 が 生きる
=生成変化した私 が 生成変化する
=生成変化して生成変化した私 が ・・・
「生きることは生成変化することだと考えると、私が生きるとは上のような状態になります」
「私が生成変化した私になって生成変化した私が生成変化×⒳した私になって…」
「このとき私という主体はずっと同じ私なのでしょうか?」
「生成変化しちゃってるわけだから、ずっと同じ私ではいられない…?」
「そうなんです。だから、ドゥルーズ先生は生きるっていうのは主体的な私ではなくて、もっと原始的なアメーバやスライムみたいなものが何かに反応したり、何かを取り込んだりするような行為を指すんじゃないか?って考えたのです」
・生きるとはアメーバよりも原始的な行為だ
「そのように考えるといったい私はいつから生きているのでしょうか?」
「お母さんのお腹の中から出てきたとき?」
「一般的な誕生はそうですね。でも、その前から胎児として母親の胎内で生きていますよね?」
「もっと前? そんなのわかんないよ!」
「宇宙はビックバンから始まったというと分かり易いでしょうか? 無限に思える宇宙も最初は何かの反応によって生み出されたとされています。ですから、私という存在も何かの反応によって産まれたのかもしません」
・生成変化の連鎖の中に今の私がある
何か×何か=新しい何か
この生成変化の繰り返しがやがて”私”をつくった
「私たちが認識できないようなほんの一欠片の何かが何かに出会って反応して新しい何かへと変化する。それがまた何かに反応して新しものを生成する。そういった生成変化が無限に繰り返された結果、たまたま今私という形を作っている。そう考えることはできませんか?」
「私は私が私を私と考えるずーっと前から生成変化してきたってこと?」
「そうですね。私たちはどうしても現代的な思考で、”今”を基準に過去を振り返って考えるので意識以前を考えないのですが、”生きる=生成変化”と考えるともっと遥か昔。それこそ限りなく無に近いところから私は”生成変化”を繰り返して”生きて”きたのです」
「だから”生きるということは生成変化をすること”となるわけかぁ」
・よく生きるとはよく生成変化をすること
生きる=生成変化をすること
よく生きる=よく生成変化をすること
「生きることがどういうことかがわかれば、よく生きることがどういうことかが分かりますね」
「よく生成変化をすること?」
「そうです。だからドゥルーズ先生は我々がよく生きるためには、新しい何かを生み出すような生き方をしなさいと言います」
「新しい何かを生み出す生き方?」
「簡単に言ってしまえば生成変化を肯定しなさいということです。自分が新しい何かを生み出せるような環境に積極的に身を置いて、どんどん生成変化すること。これがよく生きるということだ。というわけですね」
「やりたいことをどんどんやれよってことか!」
・すべては私が生成変化した何か
生成変化で作り出されたのは私だけ?
何か→生成変化→何か→生成変化→”私”→生成変化→何か
→生成変化→”世界”→”他者”
「この理論をもとにドゥルーズ先生はさらに踏み込んで考えます。はたして、このような生成変化で作り出されたのは私だけでなのでしょうか? もしかして、私が認識しているすべては私の生成変化によって作り出されたものなんじゃないか?って」
「私も世界も他人も全部私が生成変化したものってこと??」
「初めは誰も認識ができないような”何か”の生成変化から始まったのです。それがやがて世界を生成し、私を生成し、他者を生成した。そう考えることは不思議でしょうか?」
「最初はほとんど”無”から始まったんだから、無から世界を作り出したのも私?」
・私の障害ですら私が生成変化して作り出した
「我々の世界には我々の”生”を否定するような様々な障害があります。それは他者であったり社会であったり、自分であったりします。でも、そんな障害ですら私が生成変化した結果作られたものなのかもしれません」
「私が嫌なものも私が作り出したものなのかもしれないのかぁ」
「フロイト先生が「我々は抑圧されている!」なんて言って、それが社会に認知された結果、現代人はみんなストレスを抱えて生きていることになりました。けれども、そんな我々を抑圧する障害ですら我々が生成変化して生み出したものなのかもしれません」
「自分で自分を苦しめているのが現代人…?」
「でも、自分が生み出したものならば、それもまた生成変化させてしまえるはずですよね?」
「よく生きる私は障害すらも変化させていける?」
・現代人は”今の私”に固執して死んでいく
・ドゥルーズ先生の生きるということ
=「生成変化をすること」
・現代人にとっての生きるということ
=「”今の私”を維持すること」
「こんなふうに現代の私たちは”今の私を維持すること”が生きることであると考えていませんか?」
「どうしても、”今の私”がどうなるかを考えちゃうよね」
「でも、ドゥルーズ先生の言う通りならば、今の私を維持することっていうのは生成変化をしないってことですから生きることの逆なんです。今を維持するというのは死んでいるも同然ということになります」
「現代人は必死に今にしがみついて生きようとしてるけど、そんな生き方では死んでいるってことかぁ……」
・だから、すべての生成変化を肯定しよう
「だから、ドゥルーズ先生は言います。我々はよく生きること。そのためにあらゆる生成変化を肯定するべきである。この対象は”私”だけにとどまりません。組織や社会、政治などにも同様のことがいえるのです。生きた組織、生きた社会、生きた政治を行うためには、それらが生成変化することを肯定していかなければならない」
「組織や社会、政治の生成変化も肯定するべき?」
「先にあげた現代人の思考と同じように、組織や社会、政治も”今の維持”に必死になっていると瞬く間に死に体になってしまいます。それらがよく機能するためには常に新しい何か、変化しようとする力、そういうものを取り入れていくべきなのです」
「私も世界もあらゆるものは生成変化によって現れたものだから、それらを肯定してより生成変化できるように生きることが、よく生きるってことになるのかぁ」
「ドゥルーズ先生はそんな風に考えていたのではないでしょうか」
・参考文献
- 作者: クレアコールブルック,Claire Colebrook,國分功一郎
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/02
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 21回
- この商品を含むブログ (18件) を見る
・次回予告
「でも、すべてを作り出したのは私だから積極的に自由に生きろ!って話になるとなんか俺が神様だ!みたいなことにならない?」
「そうですね。この論理ではちょっと他者の存在が希薄です。次回はボードリヤール先生を参考にそのあたりを議論してみたいと思います」
「お楽しみに!」
テキトーに語るモダン哲学 - ボードリヤール「世界って何?」
―現代人はみんなゲーム脳?
―真理は他者の他者性の中にしかない
―コミュニケーション能力の正体は!