Baicaiの欠片

なんちゃっ哲学はじめました

酔って書いた文が踊るか管巻くか

 先日の記事「読書をしてマイナスになる人たちへ」がSmartNewsに掲載されたようで閲覧者数がすごいことになった。正直、この記事はあんまり考えて書いていたわけではない。この記事は紛れもなく酔いながら書いた記事だ。だから評価に困る。

 

 酔いながら書いたとはいっても、なにもお酒を飲んで酔っ払っていたわけではない。私はあの記事を書きながら文章を書く私に少々酔っていた。楽しんで書いたともいえる。しかしながら、その楽しみの大部分は沸きあがる小っ恥ずかしさをかみ締めて進む露出狂的な楽しみである。

 

  文章を書く人ならばこんな酔っ払う感覚を理解していただけると思う。得てして他者に評価されるのはその手の文章であったりもする。実はこの記事も酔う方向で筆を進めていたりする。そこで問題なのはそれが良く出るか悪く出るかということだ。

 

 私はわりあい酔いに筆を任せて放り投げてしまうことが好きだ。文章を書くことが好きな人間はたいていそんな酔っ払い共ではないかと思う。でも、酔っ払っていい文章が書けるかというとそうでもない。

 

 私を例に挙げるならば、酔っ払うと急に造語を作り出す。乱拍子の文章を好み出す。内容が重複するなど、たいていは酷い目にあう。それでも酔っ払い作文法は止められない。先にあげた欠点ですら楽しいのだ。極稀に人様に意見をいただけるような文章が飛び出す場合もある。

 

 はたして、酔っ払い作文法を使いこなす文才持ちのお方は、そんな人に喜ばれる文章の酔い方をマスターしているのだろうか。だとすれば、それは笑い上戸みたいな天賦の才能だ。

 

 それでも、研鑽次第でそれを身につけることができるとするならば、酔っ払い作文法は一つの技術と言えるかもしれない。しかし、酔っ払い作文法を一つの技術とするならばどうだろう? 

 

 その極意をマスターした者は銀座のホステスさんや接待プロゴルファーになってしまうのではないか。はたしてそれは酔って文章を書いたといえるのだろうか?  だから結局、酔っ払って文章を書いてはいけないのではないか。そんな結論に行き着く。

 

 文章を書くには楽しみが必要だ。楽しみは文章に面白みを加えてくれる。けれども、名文を書くのに必ずしも酔わなければいけないわけではない。酔っ払って仕事はできない。でも、幸いここは自由に憂さ晴らしができる場だ。禁酒禁煙の場ではない。

 

 文章が上手くなるのに酒の力を借りてはいけない。それはわかっている。わかっているけれども楽しいのだから仕方が無い。だから今日は酒の匂いが好きな酔っ払い共へ向けて適当にぶっ放すのだ。

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