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Baicaiの欠片

なんちゃっ哲学はじめました

日記 - 社会は複雑だということ

 『哲学の自然』第四章がまとまらない。レジュメを作る際に主題を誤った所為もあるのだが、なんというかやはり第四章はこれまでに比べて異質なのだ。この感覚はなんだろうと考えていたら、第四章だけはお二人が実際に活動している中で行われた対談であるということが原因のように思えてきた。

   

 簡単に言えば、対談の内容からしてまとまっていないのだ。いや、読み物としては良く出来ている。でも、物語としてはどこか歪なのだ。この歪さは実際にお二方が小平市の道路計画問題に深く関わり、活動しているからこその感情の表れなんだろうなと思う。

 

 逆に言えば、今まではの議論はある意味机上の空論であった。対談の着地点は最初から最後までなんとなく用意されていた。今回もそれはあったのだろう。けれども、そこに至るまでのルートが歪であるとそう思える。

 

  ちなみに、私が作成中の記事の引用部はほとんどが中沢先生の言葉になってしまった。これは、國分先生の方が活動に際して生まれた感情の力が強いからだろうと思う。だから、客観的に綺麗なまとめを作ろうと考えると國分先生の発言部分が使いにくくなる。

 

 本章の議論の中で國分先生は「直感知」の再考を訴えている。その辺りも”感情の力強さ”が生まれた結果であるように思える。結局やはり社会は複雑なのだ。活動すれば感情が生まれ、感情が生まれれば確執が生まれる。机上の空論は綺麗ではあるが、綺麗であればあるほど現実は客観視され感情は捨象されていく。

 

 それでも、人に何かを伝えようと思うとそこには綺麗さが必要となる。綺麗でないと人を惹きつけることが出来ない。人に見てもらえない伝わらない。しかし、それが綺麗であればあるほど現実の複雑さからは乖離していく。

 

 私も当ブログで好き勝手に放言を吐いているが、「実際にそれを実行してみろ!」と言われると上手くいくワケが無いことは承知している。國分先生は『哲学の自然』第三章の「社会は複雑だということ」の中でこう語っている。

 國分「バカみたいな話ですが、社会はすごく複雑だっていうことなんです。経済の領域は交換だけで動いているのではなくて、さまざまな要素が平行して走ることで成り立っている」

 

 國分「いわゆる「新自由主義」的な思考というのは、大量の情報や要素を一度に考えることが出来ない学者のための思考法だと思うんです。彼らは「競争、競争」って言いますけど、競争するアクターとして何が入ってくるかを具体的に考えない。「競争」がブラックボックスになっていて、それを通すと最適解が出てくることになっている。抽象的なんです。考えていることが少ない」

哲学の自然 (atプラス叢書03)

 

 果たして、私が『哲学の自然』第四章から感じるこの違和感は、社会のすごく複雑な問題に際して、お二方の思考が追いついてないことが原因なのだろうか? それとも、私の頭が現実の汚さに追いついていないのか? だから、分かりやすく綺麗なものを求めて、複雑な議論の本質が見えていないのか?

 

 このように『哲学の自然』第四章がまだ私には上手く飲み込めない。毎回何かが引っ掛かる。けれども、考えるネタを、ブログのネタを提供してくれる。これは意外な良書であったのか。いや、凸凹しているから良書ではないだろう。

 

 事実こんなブログをやっていなければ第四章はすーっと読み飛ばして終えていた。でも、いざ記事にまとめてみようと思うと引っ掛かる。ドゥルーズ先生的に言うならば、「意識に不法侵入」してくる。そんな凸凹した汚さのある本である。

 

 問題の本質は大体汚い所にある。「上善でありたいならば、水のようにそこに躊躇無く混じれ!」っと無理矢理当ブログ記事を繋げて今日は落としてみる。