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Baicaiの欠片

なんちゃっ哲学はじめました

『「変える」の概念を考える』補足と反省-日記的あとがき

 

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 昨日の記事の補足と反省をしてみようと思う。あとがき、編集後記のようなものになるのだろうか。本来ならば、書評『哲学と自然』に取り掛かりたいところではあるのだが、正直ちょっと疲れてしまった。

 だから、ちょっと散文的ではあるが『「変える」の概念を考える』に至るその内情を語ると共に、私が主張したかったことの再考証をしてみようと思う。

 

 昨日投稿した『「変える」の概念を考える』は結構前からなんとなく考えていたことで、本ブログを始めるに当たり、書こうと思っていたテーマの一つでもある。

 当初はもう少し書くことに慣れてからのんびり始める予定だったのだが、終戦の日やら官邸前デモやら、周囲の環境に影響されて頑張って書いてしまった。しかも、一晩で慌てて書いてしまったので、なんとなく大仰で不安な文章になってしまっている。

 

 そもそも、私にこのテーマを考えさせたきっかけは、ある女性から相談を受けた際の出来事であった。事務職の彼女は異動先の新しい職場に不満を抱いていた。上司の考え方や仕事のやり方、その環境、全てが非効率で「”変えたい”のにまったく変わってくれない!」としきりに訴えていた。

 

 私はそれを聞きながら、彼女の言う”変えたい”という気持ちと、”変わらない”職場環境について『「変える」の概念を考える』的なことをなんとなく考えていた。

 でも、その場の彼女の欲求は「愚痴を聞いて欲しい」と言うことであるように思えたので、「いや、変えるってことはさぁ…」なんて話はしなかったのだけれど、今に思えばそれとなく伝えてあげたほうがよかったようにも思えて、少し後悔している。

 

 だから、『「変える」の概念を考える』の最初の一歩は、政治や憲法などとは程遠い日常の中にあったはずなのだ。

 

 日常にも”変える”を主張する人々は沢山居る。例えば、少し前に私の近くに居た”仕事の出来る”人は、アイディアマンとして社内で評価されていた「変える人」であった。彼は行動力もあり声も大きかった。彼を優秀な人物だと言っても良いかもしれない。

 

 しかしながら、私は彼の周りで仕事をする人々の”変えられる”苦労も感じていた。彼が何かを変える度に、周囲の人々は新しい約束事を覚え直し、習慣を作り直す必要があった。確かに、彼の言うことは正しく、より効率的であったかもしれない。

 

 事実、彼の営業成績は高かった。だが、彼の部下はあまり芳しくない評価を受ける人々が多かった。彼は”変える”ことで評価を上げていた。しかし、彼の周囲の人々は”変えられる”ことの負担を引き受けさせられていたようにも思える。

 私は、そんな社内の構図を見ながら、また『「変える」の概念を考える』的なことを考えていた。そんなふうに考えた一つの結果が先日の記事の内容でもある。

 

 今になって思えば「政治・社会を考え直そう!」とか「未来のために!」とか、そんな”大仰で不安な建前”を考察に組み込むべきではなかったように思える。この考察は日常の中の私たちへ向けたメッセージとすべきであったのかもしれない。そんな無理が下記矛盾を産んでしまっている。

 

 正当に”変える”を主張するために

 ならば、正当に”変える”を主張するために必要なものは何か? それは、”変える”結果、利益を得る者と失う者をはっきりとさせることだ。そして、両者および第三者の納得を得なければならない。

 しかし、今日の日本でこの構図が公に議論されることは極めて少ない。とりわけ利益を得る側の情報は隠蔽される。そして、利益を失う者と改革の正当性が主張され、往々にして自己犠牲の美学のような論点に摩り替わる

 

 ー(略)-

 

 道具連関の一部となって主張する

 ”変える”という主張は必ず痛みを伴う。”変える”ことによって社会の安定が削がれるからだ。だから「変える」と主張するからには覚悟せねばならない。だからこそ、その痛みを自らが全て負うと覚悟したものだけが、正当に”変える”を主張できる。今の日本人の主張に足りないのはこの覚悟だと感じる。

「変える」の概念を考える - 自己も制度も原発も憲法も - Baicaiの欠片

 

 だから、最後にこの点を日常生活の中で私たちが「正当に”変える”を主張する」方法として、再度修正/提案させて頂きたい。

 日常生活の中で正当に”変える”を主張する。それを一番上手くやる方法は、「もちろん”変える”を主張する私が、まずその苦労を引き受けます。そして、きっとあなた方にも苦労をお掛けすることになるでしょう。それでも、後任の方(次世代)のために、”変える”のを手伝っていただけませんか?」

  このようにお願いすること。これが私が現在の日本社会の中で”非現実的希望”として定義した「正当に”変える”を主張する」方法だ。日常生活の中であればそれほど難しいことではないと思う。

 

 しかし、これを今の「政治/社会/世界」を相手に適応させようと考える。すると急に非現実的希望と思えてしまう。そんなところがこの世界を歪にさせているところだ。

 そして、本項であげた例のように、私たちの日常生活の中でも、”それほど難しくない”と思えるはずのこの方法が、現実に行われているとは言いがたい。

 

 だから、皆さんも日常の中で少しだけ考えて欲しい、”変える”とはどういうことか。”考える”とはどういうことか。もしかしたら、そんな小さなところからこの世界の歪みを矯正する術が見つかるかもしれないから。

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アイキャッチ画像、およびトップ画像はロハスnaおおいた日和(sugocaのキャラクターより)

 

 過去の記事はこちら

bungeibaicai.hatenablog.jp