文理両輪の社会を目指して - 大学とはなにか? (結論)
前章では、日本社会の歴史を振り返りながら、現代社会における人文学の現状を考察してみた。本章では脱科学化した人文学と数理科学の両輪で経済を回す。その具体策を考察して本論の結論としたい思う。
なんとか結論を迎えることが出来た。序文ではあるが、ここまでお付き合い頂いた皆様に先に謝意を述べたいと思う。そして、この教育改革が社会にとって良い方向へ舵を切ることをまず祈ろう。
目 次
1.本論を総括するための回答
2.人文学を動かす公的社会領域
3.文理両輪の社会を目指して
4.まとめ
1.本論を総括するための回答
・先だった疑問符への回答
まずは、本論の始めに産み落とされた以下4つの疑問符を解決しよう。
・文系のいう社会幸福って何だ?
・そもそも文系理系の学問の扱いの差って何なのだ?
・ほんとに社会貢献しているのは”文系<理系”なのか?
・何故企業が求める即戦力の人材は”文系<理系”と考えられているのか?
・文系のいう社会幸福って何だ?
・文理の対立の原因は与えられる”地位や報酬の不足”であり、その心は”社会不安”であった。
ならば、文系の言う社会幸福とは”安定した社会”と言い換えることが出来るだろう。件の記事も政府の社会不安解消のための教育改革に異議を唱えたものである。
・そもそも文系理系の学問の扱いの差って何なのだ?
自説ではあるが文理境界線は学問領域ではなく、学問を行う際に使用する言語である。
文系学問=言語をそのまま用いた学問全般を指す。
理系学問=記号(数)等を言語の代用として用いた学問全般を指す。
・ほんとに社会貢献しているのは”文系<理系”なのか?
・理系学問の社会貢献
1.科学技術の大衆化により革新的商品を提供して人々の生活を豊かにした。
2.科学経済バブルをもたらし、日本経済を牽引し続けている。
3.先端科学の発展による技術革新は現行の諸問題を解決する可能性を秘め続ける
・文系学問の社会貢献
1.経済学の発達と共に企業活動を活発にし、科学技術の大衆化に貢献した。
2.資本/社会主義闘争により、資本主義を社会化へと歩み寄らせた。
3.文学、芸術、音楽など人々を癒す娯楽を提供し続けている。
このように箇条書きにしてみれば、文理の社会貢献度の差にそれほど違いは内容に思える。しかしながら、文系学問の社会貢献には功罪両面を併せ持つ部分が大きい点。現代の経済社会への貢献度をなど考えると理系が勝るといわざるを得ないだろう。逆に言うならば、現代の文系学問は燻っており上手く機能していない。
・何故企業が求める即戦力の人材は”文系<理系”と考えられているのか?
1.科学技術経済において専門的知識を要する理系学生が求められた。
2.科学信仰による絶対理論が通用しやすく企業にとって御しやすいため。
3.学問の科学化により細分化/専門化された文系学問はその社会有用性を失った。
4.思想犯による反社会運動の結果、社会において文系学問の成果を実践する機会を失っている。
上記内容から、現段階で企業が理系学生を求めるのは十分な理由があると言わざるを得ない。ただし、科学技術経済が停滞を迎えた昨今では、理系の利点は薄れつつあるとも言える。
2.人文学を動かす公的社会領域
・総合人文学へ回帰せよ
科学化/細分化/専門化された人文学は、それぞれの学問領域が独立し権威を持った。しかし、孤立した人文学など社会にとっては、ほとんど何の役にも立って居なかったのだ。「人文学に専門家は居ない。いや、居てはならない」
まずは、大学改革が必要である。人文社会科学系学部という細分化されすぎた現状を廃する。そして、人文学部とは言語的学問全般を学ぶ場として、幅広い知見を与える教育方針を採り、総合人文学的な見地から社会を眺められる人材の育成を目指してほしい。
具体例を挙げるならば、主専攻の他に幾つかの副専攻を必修とするなど、最低でも2科目以上で卒業論文を書かせる程度の学術知識を求めたい。また、その程度の学問時間の捻出は現行の文系学生にも可能と感じる。
※ただし現状の3年時から始まる就職活動という負担を軽くする必要がある。1,2年次に基礎を学び、これからが学問という時期に就職活動を強要する現状のシステムには疑問を覚えざるを得ない。
このシステムがある限り、研究室の伝手などが期待できない文系学生は、1,2年次を交際活動に用い、所謂コミュニケーション能力を伸ばす方が有意義ですらある。企業は優秀な学識を持った人材がほんとに欲しいのか? 使えない人文学生を生産している一因は企業自らにもある。
・社会の中で人文学を実践するために
現代の日本社会は文系学生の研究成果を、さまざまな形の枷で縛り上げている事実を忘れてはならない。現代日本の文系出身者の多くは手枷/足枷/猿轡をはめられた状態で社会へと放り出されている。この現状を認識してほしい。
社会の中で政治、社会思想、哲学、宗教(勧誘活動等ではない)などを自由に論じられる思想改革が必要である。「会社で政治と宗教と野球の話はするな」等の暗黙的タブーを持った社会からは、決して革新的な議論は生まれない。
むしろ、積極的に議論を行いお互いを知り、知識を分かちあえる社会を目指すべきなのではなかろうか。「和を以て貴しとなす」とは十七条憲法の第一条の言葉だが、決して対立を避けて取り繕うことを薦めるものではない。
聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉。『礼記』には「礼は之和を以て貴しと為す」とある。「和」の精神とは、体裁だけ取り繕ったものではなく、自分にも人にも正直に、不満があればお互いにそれをぶつけ合い、理解し合うということが本質ではなかろうか。
若者の政治参加が叫ばれている今日である。もっと社会的に議論を推奨する環境を作り、人文学の学問成果を活かせる多様性が今の社会には必要なのだ。今日の社会は私的領域を尊重する余り、公的領域から自由な言論の場をも奪いさっている。
この社会構造は言わば、遊具も無くボール遊びも禁止され、歓声を上げることの出来ない子供のための公園である。この公園を公的領域として開放し、社会に有益な自由な言論の場を取り戻すこと。これが人文学を修めたもの達の枷をはずし、社会に多様性をもたらす。この多様性社会こそが人文学がもたらす革新へと繋がるのだ。
また、議論と討論(discussionとdebate)を混同し、勢い相手を黙らせることで議論を行ったつもりになっている人間も今日の社会には多い。このような相手を打ち負かす議論から多様性は生まれ得ない。この辺りも論じるタブーを持った社会の悪癖と言えるだろう。
3.文理両輪の社会を目指して
・企業の要望と将来像
国への要望 将来のイメージ
技術企業=科学への国家投資 =先端を走り続ける技術立国
経済企業=社会的労働力の確保=最適化による国力の維持
これが現在企業が国へ求める要望と将来像である。私は概ねこの方針に反対はしていない。現実的なところであろうと思う。ただ一つ、人文科学系学部の生贄という点を除いての話ではあるが…。
ならば、科学への国家投資分のリソースをどのように調達するか。ここに人文学部の改革による社会の多様性に期待をしたい。企業は御しやすい社員や労働力を求めるが、絶対論理が通用する環境に革新は生まれ得ない。
真の革新は多様化思想(何で絶対なのか?)から生まれることを忘れてはならない。近年注目を浴びたTOYOTAの”カイゼン活動”などがその例で、そのような革新は”絶対思想”からは生まれ得ないものだ。
(余談ではあるが、個人的にこの”カイゼン活動”なるコンサルティングを評価しすぎるのは危ういように感じる。革新は内の多様化から出るべきもので、TOYOTA的外の手法を絶対視する形も危うい。)
・治世の基本は文治にあり
また、人文学は言葉で真理を追究する学問である。その言葉で得られた知見は穏やかにではあるが広く遍く低きにまでに広がり続ける。昨今問題視されるブラック企業や社会問題なども社会倫理などの考え方が緩やかに解決してくれるに違いない。
文治(徳治)の良いところは、統治者の見識が優れていれば自然と最適化された社会を作り上げる点だ。そして、その統治者の見識を育てるのも人文学である。こうとらえるならば、やはり人文学は重要な社会の根幹だ。
歴史を振り返ってみてほしい。マルクスの時代、労働者は法律や取締りも無く、老人から子供まで”27時間労働”を強いられていたのだ。そして、マルクスが求めた自由の国への第一歩は”労働日の短縮”から始まるのだ。これら人文学の成果が今日の社会に繋がっているのである。
「必然の王国」を基礎として花開く「自由の王国」。「労働日の短縮がその根本条件である」
暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator) 第五章より抜粋
・理系学問の再活性
問題は”経済”というヤツだ。現代科学の技術革新に問題があるとすれば、つぎ込んだリソースほどこの経済という回し車を回せなくなっていることだ。
ここまで、人文学を主に議論を続けてきたが、当然理系学問にも引き続き技術革新を期待し、経済の歯車を回して貰わねばならない。 だが、現在そこに注ぐリソースが不足してきた。この点はどのように考えるべきか。
人文学の科学化がその社会的効力を失わせたのは大きな損失だったが、そこには当然利点もあった。文理の境が極めて近くなったのだ。そこで今文理共同の新たな学問解釈も生まれつつある。例えるならば、数学的発想と哲学的発想が一致し、新たな見解を発見する。少々先端的議論であり過ぎるが以下に例を挙げよう。
中沢新一は自著『野生の科学』の中で、数学者加藤五郎の『コモホロジーのこころ』を紹介し、”コモホロジーの理論”が”人間の心=脳の基本構造”に近づいていると述べている。
ある意味で言うと、コモホロジーは人間の言語の本質というものを扱っているんだと思います。僕と國分さんの間に共通項があるじゃないですか。そこを全部捨象してみましょう。捨象してみたところで國分さんと僕というものが残る。
これが本当に違うものなのかどうなのかを検証しようとすることで本質を捉えようとすることがコモホロジーという数学なんですよね。だから数学はいま、心=脳の基本構造に近づいているんだと思うんです。
哲学の自然 (atプラス叢書03) 第三章野生の科学と「不思議の環」より抜粋
・文理両輪の社会を目指して
仮に、1,2の項目で唱えたような社会革新が成功したとしよう。ならば、日本の人文学は新たな革新を迎え社会を最適化するだろう。すると、社会に新たな多様性/柔軟性が生まれ各分野の垣根が近くなる。するとどうだろう、上記の例は極端なものではあるが、相乗効果で理系学問の革新をも望めるのではないだろうか。
文理という学問はその使用言語の違いから、いつの間にか乖離し対立してきた。しかしながら、お互いが真理の追究、文明の進歩、社会幸福の実現など同一の目標を持った同じ学問であることを思い直さねばならない。文理両輪で進む学問こそが目指す社会の姿である。
・まとめ
もし、本論が述べるような政策が全て上手くいったとして、果たして社会不安を解消できるのかと問われれば、自信を持ってイエスと答えることは出来ない。少子高齢化問題、環境問題、世界的経済不況、国際情勢の悪化などさまざまな要因が、社会を波立て、人々の不安を掻き立てるだろう。
しかしながら、そのような問題に対する術を持つのもまた人文学なのだ。たしかに、今日の社会要請に人文社会科学系の学問は的が外れていると言えるかも知れない。だからといって、その学問の道を狭めてしまうのはどうだろうか。有効活用できるように模索すべきではないか。是非ともそのような方法を有識者に求めたい。
以上、真に自分勝手な提言ではあったが、人文学という学問領域には全ての問題を革新させる力がある。少なくとも私はそう信じて哲学を学んでいる。そして、学び修めた成果は社会へ還元されなければならない。だからとりあえず、今はネットの片隅でもがいている。きっと成果は後に付いてくると信じたい。 <了>
蛇足...
奇跡的になんか降って来てあっさり結論がまとまってしまった。 いいのか? 本当にこれで終わってしまっていいのだろうか? そして、タイムリーにこんな記事が...ちょうど日本学術会議とやらが人文学部廃止要請に対する討論会なんかをやっていた。togetterのほうが詳しかったので合わせてご紹介。
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