國分功一郎を読んでみた - 暇と退屈の倫理学 (5)
第五章 暇と退屈の哲学──そもそも退屈とは何か?
本章ではハイデッガーの「形而上学の根本諸概念」を軸に退屈の哲学的考察に挑みます。
ここの論旨と解説もとても分かりやすいんですが、哲学者的専門家的な強引な理論が所々炸裂するので、分かるには分かるけれどもなんだか釈然としない。そんな置いてけぼり感が残ります。参考文献にハイデッガーしか登場しないのに、結論は否定する所もあるかな。私の教養不足とも言えるのですが。
では、以下要約。
Q1.退屈するって何? 第一章でもやったよね?
では、第一章をおさらいしてみます。
『ブレーズ・パスカル』先生曰く
人間はじっとしていられない病にかかっている。だから人間は退屈から逃れるために気晴らしをして不幸を呼ぶのだ。
『バーランド・ラッセル』先生曰く
退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。
『ラース・スヴェンセン』先生曰く生きる意味を自分の手で獲得すべきと考えるから退屈するのだ。
Q2.なるほど。やっぱりよくわかりません
ですよね。それでは新たな先生に登場して頂きましょう。
『マルティン・ハイデッガー』先生曰く、
退屈とは" むなしい状態に放って置かれること "である。
Q2.むなしい状態に放って置かれること?
それでは身近な"むなしい"例をあげて退屈とは何かを考えて見ましょう。
1.退屈の第一形式
「ちょっと待っててね」
「もうちょっと、もうちょっとだけ待ってて」
「ごめん、もうちょっと時間がかかるから…」
こんなことをされると手持ち無沙汰で退屈してしまいますね。待っているのに待っているものがなかなか到着しない。これが第一形式の退屈です。時間を無駄にしてむなしいという感覚です。
2.退屈の第二形式
「昨日なにして遊んでたの?」
「家で一日中ゲームをしていたよ」
「おもしろかった?」
「うーん、楽しかったことは楽しかったんだけれど…」
こんな風に、自分で何かを行っていたのに、なんとなくむなしい気がする。これが第二形式の退屈です。暇ではないのに退屈しているという状態です。第四章で現れた大衆ヒマジンの退屈とも似てますね。
3.退屈の第三形式
「なんかつまらない…なんかもう全部むなしい…」
みなさんはこんな経験はありますか? 理由もなく突然すべてが退屈だと感じる。周囲は何一つ自分の言うことを聞いてくれない。そんなむなしい気持ちから逃れることができない。これが退屈の第三形式です。
Q4.「なんとなくわかるけれど、それでどうしたらいいの?」
『ハイデッガー』先生曰く
退屈の第三形式こそが退屈の根源的原因である。第一・第二形式の退屈はこの原因から目を背けているだけなのだ。そして、この完璧な退屈からは逃れる術がない。
Q5.じゃあ、どうしようもないじゃん
そうですね。でも、想像してみましょう。完璧に"退屈”な私=完璧に"むなしい状態に放って置かれている”私。この完璧な退屈から逃れる術は無いので私は考え続けざるを得ません。「この完璧にむなしい気持ちは何だろう?」って。
Q6.なんだかとても不幸です
それでも、ずーっとむなしい気持ちが続く人はあまりいませんよね。どうにかこうにか自分の中で"むなしさ"にケリをつけ、新たな可能性を見つけます。するとこう考えられませんか?
”完璧にむなしい状態に放って置かれている私”
”完璧に新たな可能性に放って置かれている私”
Q7.え?ってことは?
”完璧に新たな可能性に放って置かれている”=”可能性は無限大”つまりは、”完璧に自由な私”と言えるかもしれません。
『ハイデッガー』先生はこういいます。
退屈が告げているのは自由であるという事実そのものだ! あとは、決断をしてその自由の可能性を発揮せよ!
Q8.分かりました。分かりません!
私もそう思います。納得できそうな部分とそうでない部分がありますね。次はちょっと視点を変えて退屈を考えて見ましょう。
次回へ続く。
蛇足…
疲れた。難産だった。私自身消化不良。
・偉大なる先生方をすべてを信じて繋げて見ました。
人間は"退屈する病”にかかっていて、それは"事件が起こることを望む気持ち”がくじかれ時に発病するのであり、その事件とは”生きる意味を自分の手で獲得したい”という考えであり、その生きる意味とは”自由だ”! 案外そんな気もするから不思議!?
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